《ブラジル》記者コラム 〝影の立役者〟松林要樹監督 政府謝罪に導いた重要な映画 ブラジル近代史の一隅を照らす
高良県人会会長「映画なければ謝罪もなかった」
恩赦委員会のすぐ後、29日夕方、沖縄県人会有志20人ほどが集まって松林監督の送別会が、サンパウロ市近郊のサントアンドレ市の沖縄県人が経営するバールで開かれ、皆がヒージャー汁(山羊汁)で謝罪請求の成功を祝い、松林監督に感謝を表した。恩赦員会の様子を撮影するために、松林監督は7月初めにブラジル訪問し、8月6日に沖縄に帰る。 松林監督はこの作品の撮影を2015年から初め、それが縁で2017年から奥さんと共に西原町に移住し、そこで子供も二人生まれた。 映画撮影の際、監督を証言者の家まで車を運転して連れていき、通訳までしていた協力者である島袋栄喜元県人会長(73歳、沖縄県出身)は、「あの映画のDVDは参考資料として恩赦委員会にも送りました。この運動を県人会としてやることを決議する際、反対する人もいました。でも映画を見て意見を変えてくれ、すごい応援してくれるようになり、今回も恩赦委員会に一緒に参加してくれました。6500人のうちの6割が沖縄県人となれば、ほとんどの人の親戚に被害者がいるという状態です。でも、あの映画のために被害者宅で撮影をしている最中、どんどん周りに家族や親戚が集まってきて、『どうして今までその話をしなかったんだ』という光景があちこちでありました」との撮影秘話を打ち明けた。
高良律正沖縄県人会会長(69歳、3世)も「80年間、1世は強制立退きのつらい経験を子供にも語れなかった。でもこの映画がキッカケとなって家族に語り始め、団結することができた。この映画がなければ政府謝罪もなかった」と断言する。 宮城あきらさん(86歳、沖縄県出身)は、「2016年8月、松林監督がサントス日本人会会館で、強制立退き者の585家族の名簿を見つけたことが全ての起点です。それを見て初めて6割が沖縄県系人であることが分かった。誰もこの歴史を知らなかった。歴史の闇に埋もれていた。そこから『群星』の証言者探しがはじまりました。この運動のキッカケを作ってくれたのです。彼はカメラを回し、私たちはペンで広めました」と感謝を述べた。 送別会で挨拶を述べる人から「松林さんは沖縄に移住して子供が2人も生まれた。我々ブラジル日系人からしたら、彼も立派なウチナーンチュだ」との言葉が何度も聞かれた。