「変化」しないことの大事さは、平穏な日常が失われて初めて気づく
■ 「何事も起きない毎日」の大切さ 本を読むのも、決まった作家のものばかりである。 それでたまにはと思い、西村京太郎と佐伯泰英を読んでみた。おもしろかったが、しかしそっちに行きっぱなしということにはならない。 たまにはと思い、横道にそれるが、結局元のコースに戻る。 たまにはと思い、油淋鶏や天津丼に行くが、結局、炒飯・餃子に戻る。 たまにはと思い、金沢や姫路に行くが、結局、奈良に戻っていく。 元に戻っていくことができるからこそ、変化も楽しい。 結局、基本ルーティンとは、その個人にとって、間違いのない心の安定なのである。 1970年前後の学生たちは、生意気にも、サラリーマンにはなりたくないといっていた。 定年まで毎日毎日、おなじ仕事をして、生涯賃金も計算できて、結婚をして子どもをもうけて、一戸建てを立てれば上がりの、そんな一生のなにがおもしろいのか。 わたしもまた、サラリーマンにはなりたくないと思っていた。 今の学生なら、そんなばかなことをいわないだろう。正社員になることの難しさを痛感しているはずだからである。大企業の正社員ともなると、勝ち組・エリート意識をもっているという。 これはこれで、愚かな意識である。 しかし頭でっかちの学生に、毎日おなじことが繰り返されることの大切さや、何事も起きない平穏な毎日がつづくことの大事さをわかれといっても、無理だろう。 この大切さは失われてみないとわからない。 災害でいまだに仮設住宅に住んでいる人に聞いてみるといい。あるいは、世界の難民キャンプで聞いてみるがいい。あるいは、戦渦に巻き込まれている人や、政府の弾圧にあっている人に聞いてみるといい。 どれほど平穏な日常が大切か。 かれらの願いはおそらく、昨日とおなじ今日があり、今日とおなじ明日があることだ、というだろう。 「変化」しないことの大事さ、というものもあるのである。
勢古 浩爾