「変化」しないことの大事さは、平穏な日常が失われて初めて気づく
まあ、これはこれでおもしろそうだ。しかし、いまはこんなのんびりとした散歩をしている場合ではない。 歩きではなく、自転車に乗っているときに、新しい、初めての道に入り込んでみた。自転車なら多少迷っても、機動力で軽く挽回できるだろうとの目論見である。 未知の道に踏み込むのに、ほんのちょっとした勇気がいる。 まぎれ込み、さらに奥深く突き進むことで、はじめてわかる。 おなじ町なのに、はじめての道、はじめての町並が出現し、どの辺を走っているのか見当がつかなくなるのだ。 へえ、こんなところに、こんなものがあったのか、と新たな発見もある。 新鮮である。 しかし、それも最初のうちだけだ。見知らぬ風景ばかりがつづくとちょっと焦ってくる。町・街を示す案内標識が見つかれば安心できるが、それまではいささか不安感がある。 はじめての道に入るときは、時間的な余裕をもっていることが大切だ。 ■ 店も食べるものもいつも決まっている わたしは食に関しても保守的である。 店に入っても(入る前から)、食べるものはいつも決まっている。うまいと思ったものをずっと食べつづけるのだ。それで問題ない。 食べたことのないもの、新しいものに挑戦することはめったにない。未知のものを食べて、失敗するかもしれないと思うと、だめなのである。 その点、うまいとわかっているものは安心である。 それとおなじで、新しい店に入いることがなかなかできないのだ。 わたしはラーメン専門店に一度も入ったことがない。 淫するほどラーメンが好き、というわけじゃないので、ラーメンを食べたくなったら、ふつうの町中華に行く。そこのラーメンで十分なのだ。 それに専門店はなにやら注文の仕方が複雑なようで、気おくれする部分もある。二郎系だの家系だの、まったくわからない。これはわたしが単に臆病なだけか。 人はわたしに、あんたは新しい料理や新しい店を知らないことで、随分損をしているよ、というかもしれない。 まあ、そうだろうと思う。だがそれでいいのである。損とは思わない。 わたしには、もっとうまいものを求めようという意志がないのである。所詮、料理ではないかと思っている。わたしは普通のうまさだけで十分である。