消費者の「不安」とどう向き合う? 風評被害を経験した水俣市の漁師が送る福島へのメッセージ #知り続ける
その町はかつてー
透き通ったエメラルドグリーンの海をのぞくと、小さな魚が泳いでいる。雲で霞んだ天草諸島が対岸に見える風光明媚なその場所は、「魚湧く海」といわれた漁場をもつ熊本県水俣市。1956年(昭和31年)に、地元の大企業「チッソ」の工場排水が原因で発生した「水俣病」があった場所だ。 工場排水に含まれる有毒なメチル水銀が原因で、人類史上類をみない公害病といわれた水俣病。排水は周辺の海と魚を汚染し、それを食べた人々の脳や神経細胞に障害をあたえた。 「“二度と失敗は繰り返しません”というような文言がある」 慰霊碑に刻まれた文字を説明してくれるのは水俣市の杉本肇さん(63)。両親と祖父母が水俣病で闘病する姿を見た語り部だ。長年におよぶ環境回復事業によって、水俣の海は、熊本県の中でも指折り数えるきれいな海と呼ばれるまでに回復した。ただ、水俣病の発生から間もなく70年。その出来事を後世に残そうと、杉本さんは還暦を過ぎてもなお全国各地を飛び回って語り継いでいる。
「政府の仕事は信用できない」
「うちは漁師だったし、網元だったから、魚をたくさん食べました。むしろ海に依存するしかない時代だったんです」。語り部の仕事をしながら、杉本さんは、祖父の代から続く漁師の仕事をしていて、シラスやイリコを水揚げしている。幼いころから海は身近な存在。海を端にした過酷な体験があるからこそ、処理水の海洋放出も気がかりだったと振り返る。 「経験上、政府の仕事とか信用できないんですよね。何か隠されているんじゃないかと思ってしまう。科学的にということが、どこまで信用していいのかまず疑ってしまう。福島が同じような経験をしないようにと、とっても心配していました」
水俣の「風評」は今も残る…
工場排水に含まれるメチル水銀が周辺の海を汚染するなか、1974年(昭和49年)、熊本県は汚染された魚を封じ込めるため、「仕切り網」と呼ばれる巨大な網で水俣湾を囲む措置をした。最大で全長7キロを超える網は功を奏し、魚介類の実害拡大を食い止めることができた。杉本さんは「水俣の近海では、魚の安全も科学的に確認され、漁や食べることが認められていた」と振り返る。ただ、その表情は硬い。 「売るのは、なかなか困難を極めましたね。水俣産と付くともちろん売れない。今でも水俣のものというと、顔をしかめる人もいる。それは魚以外だって、「どこから来たの?」と言われて「水俣からです」となれば、すぅっと通り去ってしまう人もいますんで…」 実害だけではなく、科学的に安全であることが確認されたとしても魚が売れないという、風評で苦しんだ経験が水俣にもあるのだ。 環境回復事業の成果もあり、1997年(平成9年)には魚の水銀量が規制値を下回ったことなどから、熊本県は「安全宣言」を行い、“水俣の魚は安全だ”とPRした。その甲斐あって、水俣の魚の流通や理解は大きく広がっていったものの、“不安の声”は今も一定数あると杉本さんは指摘する。