ロールス・ロイス創設者は120年後のEV「スペクター」を予言していた!? 夭逝の天才が遺した偉業と驚きの生涯を振り返ります
「世界で最も偉大なモーター・エンジニア」との運命の出会い
ロールズが人生でもうひとつの大きな情熱を傾けたのは飛行機だった。彼はロイヤル・エアロ・クラブの創設メンバーであり、当初は気球乗りとして170回以上の飛行経験を有していた。1907年に初めて動力飛行船に乗ったときのことを、彼は「生きる価値のあるもの、それは空の征服だった」と語っている。1910年には、英仏海峡をノンストップで往復した史上初のパイロットとなり、国王ジョージ5世から直々に祝辞を贈られ、ある新聞社からは「当代随一の英雄」と賛辞を贈られた。 しかし、ロールズが生計を立てるために選んだ道は自動車だった。1902年1月、彼は西ロンドンのフルハムにイギリス初の自動車ディーラーのひとつ、C.S.ロールズ社をオープンし、フランス製のパナールやモルス、ベルギー製のミネルバを輸入販売した。自動車はよく売れたが、イギリス国産車が顧客のニーズにも、経験豊かなエンジニアであり生涯の愛好家であった彼自身の基準にも合わないことに、ロールズは頭を悩ませていた。 ロールズの幅広い交友関係の中に、グレートブリテン&アイルランド自動車クラブ(後のロイヤル・オートモービル・クラブ)を通じて知り合ったヘンリー・エドマンズがいた。エドマンズはロイス・リミテッドの株主であり、ヘンリー・ロイスが設計・製造した同社の初期のロイス「10HP」に大きな感銘を受け、1000マイル(約1600km)の試験走行に参加したことがあった。 それは、今にして思えば必然のように思える偶然の瞬間のひとつだった。エドマンズは、ロイス10HPがまさにロールズが求めていた高品質の英国製自動車であることに気づいたのだ。彼の熱意に押されたロールズは、ロイスとの面会を求め、エドマンズは1904年5月4日、マンチェスターのミッドランド・ホテルでの面会を実現させた。ロンドンに戻ったロールズは、ビジネス・パートナーであり、後にロールス・ロイスのマネージング・ディレクターとなるクロード・ジョンソンに、「世界で最も偉大なモーター・エンジニア」を見つけたこと、そしてロイスが作ることができるすべてのクルマを販売することを熱弁した。
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