生者と死者との関係は、宗教以前の領域に由来する
敬虔なる「つながり」
ご存知のとおり、宗教を意味する英語religionの語源、ラテン語のreligioは「つながり」とともに敬虔を意味します。人麿の死者との関係に敬虔なる「つながり」を見て、そこに宗教の起源をいうこともできます。それは宗教の土壌となる宗教性と呼ぶべきもので宗教とは異なるものです。同じ文章で越知は、折口信夫の「とこよ(常世)」が「死者の国であり神の国である」と書き、それが生者の日常と不可分の関係にあることを鮮やかに描き出します。 古代人はとこよから来る神人を迎えてその加護の下に生活していた。死者と生者とは子供の想像の内でのように生きた交りをしていた。母を失った子供にとっては、死んだ人はどこか遠い所にいてそこから自分達を見守ってくれている人である。彼等の為す善い事悪い事は皆死者に通じる。このような子供の意識に於ける死者のあり方を折口氏は古代人の中に考えているのではないかと思われるが、ここでも死は存在しないということができる。死が姿を現わすのはこの死者と生者の生きたつながりが絶ち切られる時である。(同前、傍点引用者) 生者と死者をともに生かしているのは「神」です。ここにも神の働きは生きています。しかし、現代人が考える宗教が介入する隙間はありません。 生きることは必然的に死者との経験を深めることになります。伴侶に始まった私と死者との関係も、若いときには思いも及ばない深さと意味を持つようになりました。生者とのあいだに誠実を尽すことは信頼の基盤ですが、同じことは死者にもいえるように思うのです。
死者とともに生きる
死者と記憶の問題にも言及してくださいました。これもとても大切な主題です。人はよく、亡くなった人が遺族の心のなかで生き続けるというようなことをいいます。それが慰めと癒しのための発言であることは理解できますが、死者との関係、つまり、死者論を本格的に深化させるとなると、それをそのまま是認することはできないように思います。なぜなら、死者の実在は、生者の記憶や生者の存在に依存することはないからです。 どんなに大切な死者でも私たちはその存在を忘れていることがあります。しかし、それによって死者の存在がゆらぐことはありません。死者とは、自分と親しい亡き者たちの呼び名ではないのです。未知の、しかし、無縁ではない死者たちもいます。 「夏の花」を書いた作家で詩人でもあった原民喜を偲びながら、「夏の花」に描かれた道順で広島の街を歩いたことがあります。原爆投下後の広島の光景を描いた民喜の小説を道標にしながら歩くのです。 このとき感じる死者は、私の知人でも友人でもありません。しかし、けっして無関係だとはいえない死者たちです。私は、彼、彼女たちの顔も姿も知らない。認識することはできても、覚えているということができない。それでも死者たちは実在します。 自分が忘れてしまったら、死者が消えてしまうように感じるという心情は理解できます。死者を記憶することを神聖なる営みとしたい気持ちも痛いほどに分かるのです。しかし、私たち生者が営むべきは、単に死者を記憶することではなく、死者とともに生きることなのではないでしょうか。 死者との経験とは、死者を想い出すことであるだけでなく、死者からのまなざしを感じることでもある。さらにいえば、死者は、私が自分を見失っているようなときも私の深いところにあるものを見つめ続けているような実感すらあります。死者は生者の心を見つめるだけではありません。その奥にある魂を、あるいは霊性というときの「霊」をも見る。 他者のまなざしを感じ、見つめられた場所を改めて実感するということは日々の生活でも経験されることです。生者は、死者に見られることによって、心の奥にあって簡単には動じない己れを感じ直すこともあるのではないでしょうか。 死者は不死です。ここでの不死とは、もう死ぬことがないというだけではありません。「不」は、仏教でいう「不二」のそれです。不二は単なる二の否定ではなく、それを超えた地平を意味するように、不死である死者もまた、生者がいう意味での死の彼方において新生している。そうなると「死者」という呼び名も似つかわしくないようにさえ感じられることがあるのです。 死者との関係を深めるなかで、つねに感じ直すのは、死者の存在を生者の色に染め過ぎないことです。それは神仏に対するときも同じなのではないでしょうか。 神仏は自分よりも自分に近い存在でありながら、永遠に解き明かすことのできない神聖なる謎でもある。死者と神仏は同じではありません。 先にもふれたように死者もまた、生者とともに神仏に生かされつつある存在です。だからこそ生者は、死者とは、どこまでも生者にとって解し得ない実在であることを忘れてはならない、そう思われるのです。 これで往復書簡も一段落です。やっとゆっくりお目にかかることができると思うと抑えていたよろこびが湧き上がります。もう手紙での対話は終わりにして、場のちからを借りたもう一つの対話を続けて参りたいと願うものです。 気が付けば、猛暑も去り、少し肌寒くなりました。くれぐれもご自愛くださいませ。 (了)
若松 英輔(批評家・随筆家)