生者と死者との関係は、宗教以前の領域に由来する
宗教以前の領域
私は生後九十日でカトリックの洗礼を受けました。受洗することは誕生以前に決まっていました。教会との関係は、母の胎内にいるときから始まっています。宗教は、誕生以前から私の生命、感覚、存在に大きな影響を与えているに違いありません。しかし、そうした私でも、死者との関係は、宗教以前の領域に由来すると感じていることを告白せずにはいられません。 カトリックは死者を重んじる霊性です。死者の象徴である聖人、あるいは聖母マリアに神への「とりつぎ」を祈ることを常としているのです。その教会は死者とともに在るだけでなく、死者の導きのうちに在るといった方がよい。その伝統が死者との関係をより確かにすることがあるのは認めます。しかし、それがなければ死者との関係が崩壊するとも思いません。 真に宗教と呼ぶべきものは、死者とのふさわしい関係をめぐってさまざまなことを教えてくれます。しかし、私たちはプラトンの『パイドン』からもそのような恩恵を得ることができるのです。ある人は『万葉集』の挽歌に豊饒な道標を見出すでしょう。 優れた小林秀雄論の作者でもあった越知保夫が、万葉の時代の人と死、あるいは死者をめぐって注目すべきことを書いています。「万葉人にとっては死とは全く人間の理解を超えたものである」と書き、こう続けています。 〔柿本〕人麿の数々の挽歌は慟哭の強さと高さに於て比類を見ないが、その感動の力は死を全く理解しないところから来る。死を理解しないということが彼の敬虔さなのである。(「好色と花」『小林秀雄――越知保夫全作品』) 死を理解しない人麿は、認識において未熟なのではありません。むしろ、肉体的な死のあとも存在し続ける何かをはっきりと感じ、それを否むことをしないだけなのです。そこに真の敬虔が生まれる、と越知保夫は述べています。越知保夫も敬虔なカトリックの信仰者でした。彼もここで人麿の生に助けられながら、自らの宗教以前の経験を語ろうとするのです。