生者と死者との関係は、宗教以前の領域に由来する
浄土真宗の僧侶にして宗教学者の釈徹宗氏。批評家・随筆家にしてキリスト者の若松英輔氏。「信仰」に造詣の深い当代きっての論客二人が、「宗教の本質」について書簡を交わす本連載。最終回のテーマは「死者」です。(本記事は、「群像」2024年12月号にも掲載されています) 【写真】先立っていった人の人生は、縁のある人の人生に混在して、血肉化していく
返事の来ない手紙
今回のお手紙はもちろん、これまでのお手紙もほんとうにありがとうございました。貴重な時間を過ごさせていただきました。 話すことによる対話も意味深いものですが、往復書簡による対話には、別種の意味と重みがあります。 異なるのは時の流れです。会話では一分の沈黙は特別な意味を生みます。しかし、書簡ではひと月でも互いに簡単に受容します。むしろ、その時間を味わっていることもある。 昨今ではメールの連絡が多くなり、待つことが少なくなりました。しかし、私が若い頃でも海外からの手紙は届くまでにひと月とはいわないまでも二週間は必要でした。 高校時代、アメリカに留学していたことがあります。そのとき日本にいる両親に手紙を書き、返事を待つことが生活の潤いになっていました。手紙を出すということは、待つ権利を手にすることでもあります。返事は来ない場合もありますが、ある時間、待つことはできるのです。 さて、このたびは、死者をめぐるお話でした。和歌は、生者から死者への手紙、つまり挽歌として生まれたという説があります。和歌に限りません。詩においても、挽歌、哀歌、悲歌など呼び名は異なっても、亡き者に対する生者の言葉にならないおもいが母胎になることが少なくありません。私もそうした経験を胸に詩を書き始めたひとりです。 文学の世界では、古今東西を問わず、死者への返事が来ない手紙に全身全霊を傾けてきたという歴史があります。 宗教をめぐる往復書簡で主題が死者に及んでいるなかで、詩の起源をめぐって書いているのにも理由があります。宗教と死者には深い関係がある。それを踏まえながら生者と死者との関係は、必ずしも宗教の媒介を必要としないという実感もある。さらにいえば、生者と死者のあいだに宗教が介在しない方が自然なようにも思うのです。 今、述べようとしているのは私の個人的な経験でもありますが、同様のことを語ったのが柳田国男でした。代表作の一つである『先祖の話』は、死者との関係が宗教以前であることを論じた論考です。 ここでいう「宗教」とは、教祖、教義、教典を持つ、いわゆる「宗教」です。『万葉集』や『先祖の話』の世界に生きている「原宗教」を意味しません。超越への畏敬、畏怖の感情から宗教が始まるのは事実ですが、それをここに適応するのはふさわしくありません。 頂いたお手紙では、「習い覚えた教えとはズレる感覚」に言及してくださいました。死者を語るとき人は、自然に個の経験を語り始め、それを深化することで普遍的な真実を見出そうとします。こうした態度も、死者との関係が宗教以前の地平にあることを予感しているからなのではないでしょうか。 宗教が無意味なのではありません。それは逸脱しそうになる個的経験を鎮め、あるいは深化を求める者によき道標を指し示すこともあります。しかし、そこで語られ、行われていることだけでは、迫りくる死者との関係を認識するのに十分ではないのです。