鬼や妖怪に襲われないコツは「酔ったふり」だった!? 『今昔物語集』で紹介された平安のライフハック
見たものは死ぬという実は恐ろしい鬼⁉ 「かたしはや、えかせにくりに、ためるさけ~」 京の都の暗闇の中、一人歩きする人の多くが、こんな呪文を唱えていたようである。声を震わせながらも、あえて威勢良く声を張り上げ、足早に家路へと急いだに違いない。 時は平安も末期、政治情勢が悪化するばかりか、災害にも見舞われて荒廃の一途を辿りはじめた頃のことである。巷に群盗が徘徊したのはいうまでもないが、実はもっと恐れられたものがあった。それが、百鬼夜行(ひゃっきやこう)と呼ばれる鬼や妖怪たちとの遭遇であった。これを目の当たりにすると「生きて帰れない」と、信じられていたからである。 唯一逃れる手立てが、仏の加護にすがること。その方法の一つが、冒頭に掲げた呪文であった。正確な意味合いは知る由も無いが、「何も見ていません。酔っ払いですので、どうか見逃してください」とでも言っているのかもしれない。行列を見られることを鬼が嫌ったからである。 百鬼夜行とは文字通り、多くの鬼が群れて深夜に行進することを言い表しているが、これを説話として書に認めたのが、平安末期に著された『今昔物語集』や『古本説話集』などであった。 仏の加護を得て難を避く 時は貞観年間(859~877年)、主人公は太政大臣藤原冬継(ふゆつぐ)の孫・常行(ときつら)である。常行といえば、大納言左大将という要職を務めた人物。その若い頃の話である。都の東に、夜毎通い詰める女がいた。その道中の美福門(朱雀門の東)に差し掛かった時のこと。200~300ほどの集団が、火を灯しながら歩いてくるのに出会った。よく見ると、手が3つの者、足が1本の者、目が1つの者など、異形の者たちばかり。いうまでもなく、百鬼夜行の行軍そのものであった。 常行は大内裏に面した神泉苑にそびえる北門の影に潜んでいたものの、とうとう鬼たちに見つかってしまった。鬼はもちろん、常行を捕まえようと近付いてくる。「もはやこれまで」と、観念したに違いない。 ところが、鬼がすぐ目の前までやってきたものの、なぜか直前で踵を返して立ち去ってしまう。鬼たちが立ち代りやってくるものの、いずれも、直近で踵を返すのである。実は、常行の衣服に、「尊勝陀羅尼」と呼ばれる真言密教の呪文が縫い込まれていたからであった。鬼たちはこれを恐れて、足早に立ち去ったというのだ。何やら、仏教賞賛のための宣伝材料とも思えそうな抹香(まっこう)臭い話であるが、当時の人々は、藁にもすがる思いで、心底、そう信じたのだろう。 道具に手足を生やし復讐?!楽器にまつわる鬼も それはともあれ、ここに登場する鬼たちがどのようなものであったのか、少々気になるところである。見たものは必ず死ぬとして恐れられたほどだから、さぞや恐ろしい形相だったのだろう…と想像しがちであるが、実のところ、吹き出しそうになるほど滑稽である。それが描かれているのが『百鬼夜行絵巻』と呼ばれる絵巻物であるが、そこには、傘や草履、五徳、鋏、扇、琴、琵琶といった楽器や台所用品など、様々な器物に手足が生えたような鬼がわんさか登場。いずれも、実にユーモラスなのである。 実はこの鬼たち、元は人々が道具として日常何気なく使用している器物たちであった。それが時を経るにつれて、霊が宿るようになったという。一説によれば、その境目が99年というところから、俗につくも(九九)神と呼ばれたそう。ぞんざいに扱われたり捨てられたりすることに怒りを覚えたつくも神たちが、どうやって仕返しをしてやろうか談合するために集まるのだとか。 そういえば、『鬼滅の刃』に登場する響凱(きょうがい)が鼓を3つも抱いた異形の姿で登場していたことを思い出す。無惨の側近・鳴女(なきめ)も、琵琶を奏でることによって無限城内の空間を自在に操っていた。ともに楽器にまつわる鬼。まさに、つくも神を彷彿とさせるものがありそうだ。 ともあれ、このつくも神が住処としていたのが、「船岡山の後ろ、長坂の奥」という山あいであった。現在の金閣寺の北部周辺か。このあたりは蓮台野と呼ばれた埋葬地の一つであったから、当然のことながら死体がゴロゴロ。そんなところから、鬼の拠点と思われるようになったのだろう。ここを根城にしながら、時には現在の銀閣寺近くを流れる白川にまで出没し、人々を襲って食い散らかしたという。大内裏に面した一条通りにも度々出没して、人々を驚かせたこともあったようである。 また、不思議なことに、鬼が出没しやすい日というものまで知られていたようで、その日の夜は、誰もこれを恐れて出歩かなかった云々。ただし、これらのお話の数々、果たしてどこまでが嘘か誠か、何とも図りかねるのである。
藤井勝彦