日常的な疲れだと思っていた… 急性肝不全で余命90日と宣告された2児の母の物語
私の名前はケイリー・シラー。39歳で幼い子ども2人を育てながらピラティススタジオのオーナーをしていれば、疲れているのも当たり前だと思っていた。身体的にも精神的にも疲れ果て、休息と睡眠が欲しくて仕方なかったけれど、それは多忙な母親の副作用として片付けていた。ところが、数週間経った頃から疲労が悪化。息切れが止まらなくなり、いつもならさほど苦労しないワークアウトが終えられなくなったばかりか、毎日のように激しい吐き気も感じるようになってきた。 【写真】手術中に4度の脳卒中… 困難な手術を経て、臓器移植が完了したケイリー・シラーさんの腹部の傷跡 妊娠したのかもしれないと思ったけれど、検査結果は陰性で吐き気がひどくなったため、かかりつけのクリニックを訪れた。私はフィットで健康そうに見えるので、医師は特に心配する様子を見せず、血液検査もすることなく、吐き気止めを処方した。その2日後、私の両目は鮮やかな黄色になった。
私は「急性肝不全」だった…
急性肝不全は成人10万人のうち4~43人が罹患する稀な疾患(米国の場合)。遺伝も関係しているけれど、私の家族に急性肝不全の兆候がある人は1人もいない。 医師の診断を聞いている間、私はずっとぼんやりしていた。自分は健康な人間だと思っていたのでショックだったし、あまり突拍子もないことを言われると、すぐには意味が理解できないものだ。展開が早すぎて、パニックになる暇も心配する暇も泣く暇もなかったけれど、家族が一緒にいたので、希望を持ち続けなければならないことだけは分かっていた。ネガティブなセルフトークや死ぬことばかり考えるような状態に陥ることはできないし、したくもない。これは決して終わりじゃないと、私は自分に言い聞かせ続けていた。 その後2週間にわたってステロイドの投与を受けたけれど、何も改善しなかった。
そして、私は余命90日と宣告された。
私が生きる唯一の道は肝臓移植だった。 主治医の肝臓内科長は素晴らしい人で、私が移植を受けられると確信していた。そのとき、私は移植リストの一番上にいたからだ。私は彼を信頼し、平静を保とうとしたけれど、臓器移植は基本的に“待ちのゲーム”。それがいつになるのかも、そもそも可能になるのかも分からないので、私は最悪の場合に備えて遺書を書き、私なしでもピラティススタジオが運営できるようにして、子どもたちのクローゼットを片付けた。息子たちは育ちざかりなので、いまのうちにやっておいたほうがいいと思った。こういうことをしている間は気が紛れ、余命のことを考えずに済む。 移植を待っている間の数週間も容態は変わらず、食欲はゼロ。喉は焼けるように痛く、体は驚くほど衰弱していた。 臓器移植を待つということは、自分が生きるために誰かが死ぬのを待つということだから。この事実は本当に受け入れ難く、いまでも理解に苦しむけれど、私にはそれが唯一の選択肢だった。当時の私は、自分の体内で起きていること、そして自分には待つことしかできないという事実を受け入れなければならなかった。自分のコントロールが全く効かない状況では、自分の力を手放すしかない。