松本幸四郎 『勧進帳』武蔵坊弁慶 「常に、ここから逃げ出したいと思っています」【今月の歌舞伎座、あの人に直撃!! 特集より】
富樫への回答の一つひとつが命がけ
── 本舞台で富樫に咎められ、「勧進帳を読め」と言われて、弁慶が巻物を手に取り、紐をシュッと解いて開く。この流れがまたカッコいいです。 幸四郎 これは型ではないのですが、父と叔父とで紐の長さが違うんです。これはもう単純に巻き方の手癖が違うからですが、叔父の方がやや短い。今回は僕も叔父のやり方をやっています。叔父の弁慶を勤めているのだと、自分へのおまじないみたいなものですね。 ── 富樫が近づいてくる気配を感じて、ハッとなります。 幸四郎 ここはもう互いに合わせるとかではなくて、生身の人間がそこにいる、その気配を感じる。そういう場面ですね。 ── 弁慶と富樫の気合がリアルにそこでぶつかり合っているのを、客席から目撃しているわけですね。 幸四郎 あそこはとにかく大変だし常に苦しい。頭のどこかにいつも「はい、僕ら偽物です。この人義経です。どうぞ捕まえてください」って逃げ出したくなる思いがあるんですよ。「これは何にも書いてないただの巻物ですよ。はいどうぞ」って(笑)。もうね、常に帰りたい(笑)。だって全部嘘なんですから。弁慶が富樫の前で言ったりやったりしてること全部。 ── 初役の時からそういう思いでしたか。 幸四郎 初役の時(2014年11月歌舞伎座)はそれ以前に、まず叔父が義経、本舞台に行くと父が富樫でこっちを向いてる。すごいプレッシャーでしたから。染五郎(当時金太郎)も太刀持でいて、これは実に幸せなことですが、考え方によっては拷問に近いですよね(笑)。早く義経を引き渡して帰りたい気持ちでした(笑)。 ── そんな関所を通るために、弁慶は覚悟を決めるわけですね。そして富樫が次々と質問を浴びせてくる、問答となります。 幸四郎 あそこは弁慶にとっては富樫が出してくる問いの一つひとつが関門でなきゃいけないんです。質問事項がズラッとリストになっていて、そのうち何問答えられれば合格、ではないんですよね。勧進帳持ってるか?持ってる。読み上げろ、読み上げた。ひとつくぐれた、またひとつくぐれたと、いちいちばれるかばれないかの瀬戸際なんですよ。「勧進帳は持ってなかったけど問答で答えられたから通れたよ!」というものではない(笑)。満点じゃなければゼロ点。一つひとつが命がけなんですよね。 ── 富樫と、食い合うように一つひとつ問答を重ねていきますね。 幸四郎 よく言われるのは「怒鳴り合いになってはいけない。喧嘩になってはいけない」と。「袈裟って何なんだよっ?!」「こういうものだよっ、こらあ!!」ではない(笑)。そうではなくて、「袈裟とはどういうものだ」「これこれこういうものです」、「兜巾とはなんだ」「こういうものです」、「太刀で人を殺すこともあるのか」「あります」と、ちゃんと問答でなければいけないんですよ。 ── そのせいでしょうか、あの場面になると、舞台面は松羽目物の歌舞伎なのに、どこか対話劇のようです。 幸四郎 そうなんですよ。珍しいですよね。歌舞伎の代表作とはいわれるけれど実は特殊な狂言だと思います。女方は出ないし、松羽目だし、歌舞伎十八番といっても見得は少ないですし、山台(編集注:長唄、常磐津、清元などの演奏者が乗る台)が並んでいるのに上演時間の半分は演奏をしていないですから。そして緞帳で幕が開いて定式(幕)で閉まる。すべてにおいて特殊です。いや、何でもありなのに、ひとつの作品としての完成度がすごい。