埼玉を走った「北武鉄道」超短命の知られざる歴史 どんな路線?東武・西武・南武以外に実は「北」もあった
2024年4月1日、南武線(川崎―立川間)が戦時買収によって国有化されてから80年を迎えた。南武線の前身は、1921年3月に設立された南武鉄道である。この社名に含まれる「武」とは、武蔵国のこと。現在の埼玉県、東京都、神奈川県横浜市・川崎市の大部分を含む地域の旧国名である。 【写真を見る】現在の秩父鉄道の羽生駅から行田市駅を経由し、熊谷駅に至る路線を運行していた「北武鉄道」とはどのような路線だったのか? 南武鉄道は残念ながら、設立から二十数年で国有化により消滅したが、東武鉄道、西武鉄道は、今も大手私鉄として存続している。 では「北武鉄道」は、歴史上、存在したことがあるのだろうか。結論を言えば、短期間ながら存在し、現在の秩父鉄道の羽生駅から行田市駅を経由し、熊谷駅に至る路線を運行していた。今回は、この北武鉄道とはどのような路線だったのか、追いかけてみることにする。
■『のぼうの城』の城下町 北武鉄道に関する資料は極めて少なく、当時の新聞記事や『秩父鉄道五十年史』などにわずかに記載があるのと、「大正期地方鉄道の開業と地方企業者活動-北武鉄道会社の事例-」(恩田睦著。以下、恩田論文)という研究成果があるくらいだ。以下、これらの文献を参考にしつつ、その歴史を記す。 北武鉄道は、埼玉県北埼玉郡忍町(おしまち。現・行田市)を含む北埼玉地域の交通の便を図るために計画された。忍町は、映画『のぼうの城』(2012年)の舞台にもなった忍城の城下町である。豊臣秀吉の小田原攻めに際し、小田原城の支城であった忍城は、石田三成による水攻め(忍城の戦い)に遭いながらも果敢に抗戦を続け、本丸が浮いているように見えたことから「浮き城」の異名を持つようになる。
江戸時代には忍藩の藩領となり、享保年間(1716~1736年)に、忍藩主が藩士の婦女子に内職として足袋(たび)づくりを奨励したことから、足袋の生産が盛んに行われるようになった。明治20年代半ば以降は、ミシンや裁断機が導入されるなど機械化が進み、生産量が増大。同じく当地の著名な物産品である藍染め織物の「青縞(あおじま)」などとともに、各地に出荷するための効率的な輸送ルートが必要となった。 ところが、忍町は地域の商工業の中心でありながら、19世紀末~20世紀に至っても、なお鉄道空白地帯だった。