埼玉を走った「北武鉄道」超短命の知られざる歴史 どんな路線?東武・西武・南武以外に実は「北」もあった
当時の北埼玉地域の鉄道の敷設状況を見ると、1883年7月に私鉄の日本鉄道によって、現・JR東北本線・高崎線の上野―熊谷間(日本鉄道第一区線)が開業し、1885年3月に吹上駅が開設されたが、忍町の中心からは4kmも南に離れていた(熊谷駅までは約6km)。 その後十数年を経て、1899年8月には東武鉄道が現在の伊勢崎線の北千住―久喜間を開業。1903年4月に川俣駅までの延伸にともない羽生駅が設置されたが、忍町の中心からは8km以上の道のりであった。さらに秩父鉄道(開業時は上武鉄道)が1901年10月、熊谷―寄居間を開業させたが、熊谷駅までは前記の通り約6kmの距離があった。
■足袋の出荷へ「馬車鉄道」計画 そのため、忍町発の貨物は鉄道駅まで陸路で運ばれたが、「行田からは、加須を経て栗橋に至る県道はあるが、ひどい悪路」(『埼玉鉄道物語』老川慶喜著)だったため、忍町から主な販路である北関東・東北・北海道などへ製品を出荷するには、貨物を吹上駅(日本鉄道第一区線)に運んだ後、大宮駅や秋葉原駅へ移送し、日本鉄道第二区線(現・東北本線)に積み替えなければならず、時間と余分な費用がかかった。
こうした状況下で切望されたのが、北埼玉地域を横貫する鉄道路線であり、実際にいくつかの路線が計画された。そのうちの1つ、北埼玉鉄道(熊谷から忍、加須を経て、日本鉄道第二区線の栗橋までを結ぶ計画。1895年11月出願)の資本構成を見ると、東京市(当時)在住者が株主の過半を占めていたが、忍町の有力商工業者も名を連ねており、地元の期待の高さがうかがえる。 この北埼玉鉄道の敷設申請は1896年3月に却下されるが、直後の8月に再出願するという熱の入れようだった。さらに足袋製造業者らが、鉄道を所管する逓信大臣宛に横貫鉄道の必要性を訴える上願書まで提出している。だが、結局これらの計画はいずれも却下されてしまう(北埼玉鉄道は1897年5月に再度却下)。