埼玉を走った「北武鉄道」超短命の知られざる歴史 どんな路線?東武・西武・南武以外に実は「北」もあった
このような挫折を経て、実を結んだのが、1899年4月に敷設認可を受けた忍馬車鉄道だった。同鉄道は吹上駅から忍町を経由し、長野村(現・行田市長野など)に至る公道上に軌道を敷設するという局地的な計画だった。発起人全員が忍町の商工業者で構成されており、他所の資本に頼ることなく、自分たちの力で最小限の交通を確実に実現しようという意図が読み取れる。 ■馬車鉄道不振の中「北武鉄道」計画 忍馬車鉄道は、1901年6月に吹上駅から行田下町(大長寺手前。現在、「行田馬車鉄道発着所跡」の石碑がある)までの約5.3kmが開業した。だが、開業後の経営は厳しく、旅客数を見ると、1902年には年間10万3965人(1日平均284人)の利用があったが、3年後の1905年には半分以下の年間4万5581人(1日平均124人)にまで落ち込み、経営難により解散している(数値は行田市郷土博物館提供資料による)。同年、新たに行田馬車鉄道が設立され、事業を継承したが、収支改善は見られなかった。
経営不振の要因は旅客輸送だけでなく、貨物輸送の面にもあった。そもそも足袋の輸送に、馬車鉄道がそれほど使われなかったのである。その理由について『行田の歴史:行田市史普及版』は、「有力な足袋業者の多くが自前調達の荷馬車で輸送したか、あるいは日本鉄道と提携した運送業者(鉄道貨物取扱業者)などに依頼したと推測される」とする。 足袋は軽量なので、吹上駅までならば、馬車鉄道の運賃を払わずとも自前の荷馬車で事足り、また吹上駅接続では、先に見たような貨物輸送問題の根本解決にはならなかったのだと思われる。
馬車鉄道の経営が振るわなかった一方、行田の足袋は、日清戦争(1894~1895年)、日露戦争(1904~1905年)を通じて軍用足袋の特需がもたらされるなどした結果、「生産量は飛躍的に増大」(『行田の歴史:行田市史普及版』)していた。明治10年代後半に年間生産高50万足程度だったのが、明治30年代後半の1905年には445万足に達している。 こうした忍町の商工業の著しい発展に着目し、北埼玉エリアを横貫する鉄道を敷設しようという計画が、ここにきて再び持ち上がった。そして、その運動の中心にいたのは忍町の商工業者ではなく、羽生や加須の人々だった。