埼玉を走った「北武鉄道」超短命の知られざる歴史 どんな路線?東武・西武・南武以外に実は「北」もあった
羽生の人たちは、熊谷―忍―羽生間を結ぶ北武鉄道を計画し、一方、加須の人たちは、熊谷―忍―加須―栗橋間を結ぶ埼玉鉄道を計画した。ほかにもいくつかの計画があったようだが、最終的にはこの2路線が競願となり、「北武鉄道側の勝利に帰した」(1911年3月9日付「国民新聞」)のである。 ■「二束三文に買収さるるが落ち」 だが、この北武鉄道計画に対して忍町の人々は、当初は興味を示さなかったといい、実際、発起人に忍町の商工業者は含まれていなかった。
その理由はいくつか考えられるが、まず、忍町の人々は横貫鉄道の必要性は認識していたものの、これまでに前述の北埼玉鉄道をあきらめ、自分たちの手で馬車鉄道を敷設した経緯がある。だから、「なにを今さら」「どうせ、またモノにならないだろう」という思いが、少なからずあったはずだ。 また、1917年7月8日付の「国民新聞」記事に「(北武鉄道の)将来の営業成績を観るに何れの方面より観察するも不振なるは予想するに難からず結局は東武鉄道等に二束三文に買収さるるが落ちにて」と記されているのは注目に値する。当初、羽生の有志の人々による活動だった北武鉄道計画は、敷設免許下付後には、東武鉄道社長の根津嘉一郎が取締役に就任し、筆頭株主にもなっていた。こうした大資本による実質的な経営支配の動きを、地元の人たちは嫌ったのである。
このように地元での理解が不十分なままでは、資金集めも思うように進まず、増資が必要になった際も、沿線割り当て分の出資交渉が難航した。そうこうするうちに1918年4月、北武鉄道の敷設免許は失効してしまう。 それでも、北武鉄道は解散することなく再出願を目指すが、ここで状況に大きな変化が生じた。それまで北武鉄道計画に対して距離を置いていた秩父鉄道が出資を言明したのだ。1919年3月6日付「国民新聞」に、次の記事がある。
「秩父鉄道が極めて冷静の態度に出で同問題(注:北武鉄道建設)の渦中に入る事を絶対的に回避し来れるが今度の新運動(注:再出願)に向つては秩父会社の幹部が公然同鉄道布設の有利有望なるを言明し相当株引受を約するに至りたる」 ■全通後1カ月で秩父鉄道と合併 この秩父鉄道の態度の変化には次のような事情があった。秩父鉄道は1917年9月に影森駅まで延伸し、1918年9月には影森―武甲間の武甲線(貨物線)を開業。セメント原料である武甲山麓の石灰石輸送を開始した。当時は浅野総一郎率いる浅野セメント(現・太平洋セメントの一源流)が、東京の深川工場の降灰問題を解決し、操業継続を決定するとともに、1917年7月からは新たに川崎工場の操業を開始するなど増産体制に入った時期であり、絶好の商機だった。