日本に勝機はなかったのになぜ広島・長崎に「原爆」が投下されてしまったのか⁉─和平交渉の実情─
■世界57国に宣戦布告された日本の和平交渉の実情 現在の立場から見ると昭和20年の春の時点で、大日本帝国の状況はまさに八方塞がりとしか考えられなかった。強力な同盟国であったドイツ第三帝国は崩壊寸前であり、この時点で日本に宣戦布告していた国の数は世界で57に上っている。まさに日本は世界を相手に戦わざるを得なくなっていた。 このためさすがに国内にも和平への道を探ろうとする動きが活発化していた。 すでに沖縄はアメリカ軍の手に落ち、首都東京をはじめ主要都市は爆撃により灰塵と化し、民間人にも死傷者が続出となれば、これは当然であろう。 そしてそれらは政治家、すでに戦う手段を失っていた海軍首脳が中心となっていた。実際、動ける艦艇は皆無で、加えて燃料も完全に底をついていたから戦おうとしても手の打ちようがなかったからである。一方、地上の兵員数だけは豊富にもつ陸軍は、相変わらず徹底抗戦を主張し、陸軍大臣・阿南惟幾(あなみこれちか)と、彼を信奉する青年将校らは和平阻止に向けて行動を起こす。 具体的には和平を推し進めようとする人物の殺害まで企てる有様であった。この動きは政府が国家として和平、つまり全面降伏を決定したあとでも続けられるが、最終的には挫折する。 結局、もっとも強く和平を主張したのは昭和天皇であった。3月10日、東京大空襲の焼け跡、5月の九十九里浜防御態勢の侍従武官による視察から、天皇はすでにこの国が崩壊の真っ只中にあることを悟られていたのであった。さらにドイツ全土が焦土となったのちになってようやく降伏したという事実も、日本の現状に当てはめて決心を固めたと思われる。 もっとも和平賛成派の思惑の中には、現在の視点に立つと滑こ っ稽けいとしか思えないようなものさえある。一部の勢力は、和平に向けてソ連政府へ仲介を依頼しようと動いていた。このときソ連は、大兵力を準備し、まず満州、続いて朝鮮、その後は北海道への侵攻を計画中であったから、これは夢物語でしかなかった。 結局、7月に入り日本政府の中心人物である近衛文麿、鈴木貫太郎、木戸幸一らが、連合軍から示されたポツダム宣言(全面無条件降伏、ただし天皇の地位保全など)の受諾の是非につき、最高戦争指導会議で検討中であった。その最中ソ連の参戦、広島、長崎への原爆投下の報がはいり、宣言受諾とならざるを得なかった。このため辛うじて、そして幸運にも本土決戦は行われることなく、昭和12年の日中戦争以来、戦争に向けて日本と国民を引きずり続けてきたこの国の指導者たちも、最後の最後で戦争をやめるべく決断したのであった。 監修・執筆/三野正洋 (歴史人2021年8月号「日米開戦80年目の真実」より)
歴史人編集部