子どもたちに「嫌われてもいい」 “悪童”が指導者へ…エリートの「鼻をへし折る」流儀【インタビュー】
川崎フロンターレOB森勇介氏が歩むセカンドキャリアへの過程と現在
かつて川崎フロンターレに6シーズン在籍し、主にサイドバックとして活躍した森勇介は今、アカデミーコーチとして川崎U-15生田を指導する日々を送る。現役時代、ラフプレーの多さから「悪童」との呼び名も。2018年に現役引退を発表し、プロ生活に幕を閉じた。現在はU-15生田の久野智昭監督を支えつつ、U-14の監督として指導の現場に立っているなか、指導者に至るまでの過程と現在の姿に迫った。(取材・文=江藤高志/全3回の2回目) 【写真】5000万円の返還をきっかけに誕生した「フロンターレ算数ドリル」 ◇ ◇ ◇ 森が指導者ライセンスを取得したのは2014年に在籍していたFC岐阜時代のこと。 「たまたま岐阜の時にチーム内にインストラクターの方がいて。それでC級が取れました。チーム内で規定の人数が集まれば講習を受けられますよ、という形で」 日本サッカー協会のライセンス制度では、ライセンスを持たない人が最初に取れるのがC級かD級、もしくはキッズリーダーになっており、C級がなければB級以降のライセンスは取れない仕組みになっている。C級を取得した森はライセンスについて当時「とりあえず取っておこう」というくらいの感覚だったのだという。 森は「指導者が面白いとは思っていなかったので」と、その当時を振り返る。ところが2015年に移籍したSC相模原時代に、運良くB級も取得できたことで心境が変わった。 「せっかくBまで取ったし、年も年だったので(33歳の年)。指導者がいいかなと思って、(セカンドキャリアとして)ほかの道に行くのもなというか、ほかのことはやる気がなかったし、せっかくここまで来たから。サッカー面白いし」 指導者への転身を考え始めた相模原時代、チームメイトには元日本代表の高原直泰が居た。高原は相模原を退団した2015年12月に沖縄SVの設立を発表。そこに森を誘ったのだという。 「指導者をやりたかった」と話す森に対し、高原は「選手でもやれないか?」と提案。選手兼コーチとしての加入を決めたという。つまり、ここが森の指導者としての原点ということになる。 トップチームでは選手兼コーチの立場からチームメイトに助言する一方、育成の小・中学生の選手を相手に指導を開始。選手と指導者の二足のわらじを履いて過ごした。その沖縄SV時代にA級までのライセンスを取得した森は2019年から古巣である東京ヴェルディのアカデミーコーチに就任し、中学生年代の指導にあたった。 そんな森へ古巣の川崎から最初の接触があったのは2019年の11月頃のこと。長年強化部に在籍していた山岸繁現育成部長からの連絡だった。ただその時点で、川崎へ戻るつもりはなかった。 「オファーということではないんですが、その当時は羽生(英之社長・当時)さんに呼ばれてヴェルディに戻してもらったばかりだったので」。恩を返す義理堅さを指摘すると「それがないと、やばくないっすか? 人として」と語った森は、東京Vでの仕事に邁進し義理を果たしたあと、山岸育成部長からの2度目の要請に応えた。もう1つの古巣である川崎に戻る決断をしたのだ。 1年目の2023年はスクールを受け持ち、U-15生田に異動になった今季は14歳のチームを任されている。 「自分はカテゴリーを持たなかったらやりたくなかったので」。そう話す森は、「S級(現Proライセンス)は、タイミングが合えばどこかで行こうかなと思っています」と今後の展望を語る。「この歳になっても目標を持ってやらないと、子どもにも目標を持ってやれと言っている。だから、まずは喫緊の目標はS級を取ることが一番の目標かなと」