日清食品を創設した『まんぷく』萬平のモデル・百福。「これは世界的な商品になるかも…」<チキンラーメン>との商品名が付いた成り行きとは
2018年に放送されたNHK連続テレビ小説『まんぷく』がNHK BSとBSプレミアム4Kで再放送され、再び話題となっています。『まんぷく』のヒロイン・福子のモデルとなった、安藤仁子さんは一体どのような人物だったのでしょうか。安藤百福発明記念館横浜で館長を務めた筒井之隆さんが、親族らへのインタビューや手帳や日記から明らかになった安藤さんの人物像を紹介するのが当連載。今回のテーマは「魔法のラーメン ~家族総出で製品作り」です。 【写真】チキンラーメンを開発した池田市呉服町の自宅 * * * * * * * ◆家族総出で製品作り 1958(昭和33)年の春になりました。 即席麺は少しずつ完成に近づいていました。百福や家族の心と同じように、玄関先の桜の花びらも、心なしか華やいで見えました。試作品を作るところまで来ていましたが、百福一人の手では追い付かず、家族総出の作業となりました。 冨巨代と規矩の姉妹(仁子の姪)も手伝いました。仁子の父の郷里二本松からも親戚の森軍造が来てくれました。森は素朴な青年で、信用組合で働いていましたが、倒産の後も帰らず、池田の安藤家の前に下宿していたのです。猫の手も借りたい忙しさでした。宏基(次男)は小学校四年生、明美(長女)は小学校三年生です。親の手伝いをできる年頃になっていました。 「おーい、手伝え」という声を聞くと、宏基と明美は喜び勇んで小屋に駆け込んだものでした。 長男の宏寿はもう成人していました。仁子は人一倍気を使い、「宏ちゃん、宏ちゃん」と呼んで可愛がりましたが、知人の家に長く滞在したり、一人で中国大陸に渡るなど、なかなか家に居つかない子どもでした。
◆「えらいスープに詳しい人やな」 百福は毎週一回、大阪梅田の阪急百貨店地下一階にあった「鳥芳」という店で親鶏のブツ切りを五キログラム買いました。当時五キロで千五百円くらいしました。 その時に働いていた井元弘(後の鳥芳三代目)は普通の家庭で使う量ではないので、「いつも同じものを買われますね」とたずねました。すると百福は「ちょっと研究している」と答えました。 ある時、「トリの値段はどうして決めるのか」と百福に聞かれました。 井元の説明を最後まで聞くと、「けれども、品物にはA級もB級もある。スープを取るにはB級だけでもC級だけでもあかんのや。いろいろ混ざってないと」と言われて驚きました。 「えらいスープに詳しい人やな」と。 そして最後に、「分かった、毎日の値段はおまえにまかせる。おまえが決めてくれ」と言われ、「うれしかったけど、責任重大やと感じました。安藤さんとのやり取りで商売のやり方を勉強させてもらいました。チキンラーメンの最初のスープは鳥芳のトリで作った。それが自慢です」というのです。 さて、スープ作りは仁子が担当しました。トリのぶつ切り、トリガラ、野菜に香辛料を加え、寸胴(ずんどう)鍋で五時間ほど炊き出します。トリの頭はきれいに洗います。百福はいつも、トサカを指さして、「ここからいいダシが取れるんだ」と言いました。 仁子ら女性軍は大きな声で一緒に歌を歌いながら働きました。ご近所にはうるさかったでしょうが、もう誰もそんなことは気にしません。不思議な高揚感が家族を包んでいました。
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