日清食品を創設した『まんぷく』萬平のモデル・百福。「これは世界的な商品になるかも…」<チキンラーメン>との商品名が付いた成り行きとは
◆「食べ物には国境がない」 蒸しあがった麺は熱いうちに手でもみほぐし、竹で作ったスノコの棚に並べて陰干しします。水やり用のジョウロで麺にスープをふりかけて味をつけた後、金網でできた四角い型枠に詰め、百六十度の油が入った中華鍋にゆっくりとつけます。 麺を油で揚げる仕事は男手が必要になり、仁子の姉澪子の長男一馬と、四男那茅満(なつみ)が手伝いに来ました。 揚がった頃合いを見て引き上げると、麺は焼き菓子のように黄金色になっていて、香ばしいにおいが広がります。それを宏基が一個ずつ袋に入れました。明美はその袋を足踏みシーラーで閉じる役でしたが、シーラーの電熱部に触れてしょっちゅうやけどをしました。 実はこの頃、まだ国内で売れるめども立っていないのに、アメリカに輸出を始めていました。百福が親しかった貿易会社の知人に頼んで、サンプルをアメリカに送ってもらうと、すぐに五百ケースの注文が来たのです。 国内向けの製品は三十食ずつ段ボールに詰めていきます。アメリカ向けは、その段ボール六ケースをまとめて、さらに大きい段ボールに詰めました。一ケースの段ボールと区別するためにこれを単に“ボール”と呼んでいました。 ふたたび宏基の出番です。「作業の中で一番楽しかった」というボールに「MADE IN JAPAN」「EXPORT」と刷り込む仕事に熱中しました。これは百福がボール紙に筆で書いた文字を切り抜いて型紙にし、宏基がその上から墨を塗って転写したのです。 百福は「食べ物には国境がない」と感じていました。 「将来、ひょっとして世界的な商品になるかもしれないぞ」 そんなかすかな予感にふるえたのでした。
◆魔法のラーメン 百福は誰かにものを頼む時は、「チキンのスープを運んでくれ」などと、いつも「チキン、チキン」と叫んでいました。商品名がチキンラーメンになったのは自然の成り行きでした。 「油で揚げた後に出るヒゲ(麺のかけら)をがばっと手でつかみ、どんぶりに入れて、白ネギを振り、湯をかけて食べた。これがうまかった」 宏基は当時の味を、今も忘れることはできません。 のちに、日清食品の社長に就任した際には、「私は門前の小僧。小さい時から親父の仕事を見てきたので、知らず知らず即席麺の知識が身についた」と、百福のそばで開発を手伝った喜びを語りました。世の中は創業家の二代目には厳しい見方をするものですが、宏基には、「おれはただの二代目じゃないぞ」という強い気概があったのです。 「さあ、お湯をかけて二分で食べられます。チキンラーメンはいかがですか」 6月になると、梅田阪急百貨店地下食料品売り場で試食販売をしました。いまは、お湯をかけて三分ですが、最初は二分でした。 百福にとっては初陣です。小麦粉と食用油にまみれた作業着を脱いで、久しぶりにスーツに着替えました。 客の前でチキンラーメンの入ったどんぶりにお湯を注いでフタをします。でき上がったら取り分けて、刻みねぎをあしらって出すと、あっけに取られています。 「あら、ほんまのラーメンや」 「おいしいやないの」 客は口々にほめてくれ、持参した五百食はその日のうちになくなりました。 百福は客の反応をつぶさに見て、「これは売れる」という手ごたえを感じました。そして、いつしか人々はチキンラーメンのことを「魔法のラーメン」と呼ぶようになったのです。
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