日清食品を創設した『まんぷく』萬平のモデル・百福。「これは世界的な商品になるかも…」<チキンラーメン>との商品名が付いた成り行きとは
◆「またここへ戻ってきたのか」 試食販売の評判は良かったのですが、正式に販売するには、生産量がまったく足りません。資金もそろそろ底をつきかけていました。 「ああ、今月はもう千円しか残ってないわ」 仁子が大きなため息をつくのを、宏基は覚えています。 「あの頃は貧乏で、毎晩、イワシの煮つけでしのいだ」ことも。 いつまでも家族の手作業に頼っていては商売になりません。大量生産する工場が必要になりました。百福は知人に頼み込んで百万円の借金をしました。そのお金で、大阪市東淀川区田川通り二丁目にあった古い倉庫を借りました。十三の近くです。仁子にとって、少女時代に一番苦しい生活を強いられた場所でした。 「またここへ戻ってきたのか」と内心は穏やかではありません。でももう三十年近くの月日がたっています。街並みもずいぶんきれいになりました。あの頃の追いつめられた生活と、新しい目標に向かって進んでいる今の状況とは比較になりません。 「いろいろな苦労を乗り越えてきたから、いまの私がある」 また、クジラのように呑み込んでしまいました。すると、将来への不安は消えていきました。 ある日、工場の仕事を手伝っていた仁子が帰宅途中、十三大橋を渡っていて友人に出会いました。仁子は出来たばかりのチキンラーメンが入った段ボールケースを下げていました。 「いまご主人は何をされているんですか」と聞かれました。 「ラーメン屋さんです」 「あら、ラーメンですか」とちょっと驚いた顔です。 その頃、ラーメンというと引揚者や職を失った人が、仕方なくラーメン屋台を引くというイメージだったのです。 「主人は将来必ずビール会社のように大きくなると言っています。ラーメンにはビールと違って、税金がかかりませんからね」 そう言って胸を張りましたが、分かってもらえない様子でした。
◆初めての経験 当時、うどん玉が一個六円、乾麺が一袋二十五円でした。チキンラーメンは一食三十五円で発売されました。どの問屋さんも異口同音に「高い」と言いました。なかなか扱ってもらえなかったのです。 1958(昭和33)年の8月25日、大阪市中央卸売市場(大阪市福島区)で、チキンラーメンが初めて正規商品となり、店頭で売られました。扱い店は少しずつ増えていきました。 ある日、めったに鳴らない工場の電話が鳴りました。 「安藤さん、売れるがな。チキンラーメン、百ケースでも二百ケースでも持ってきて」 次から次と、問屋から注文が入ります。 「現金前払いでええから、できるだけぎょうさん回してくれ」 「なんならこっちからバタコでとりにいきましょか」 バタコとは、当時関西でよく売れていたダイハツの三輪トラック「ミゼット」のことです。 「チキンラーメンがほしい」というお客さんの声が小売店から問屋に届き、注文が殺到し始めたのです。 十三田川工場のボイラーに火が入るのは毎日午前三時。深夜十一時過ぎまで作業が続きました。それでも、一日六千食作るのがやっとです。出口には問屋の車が並んで、製品が出てくるのを待っています。目の回る忙しさに変わりました。 「門前市をなす、とはこういうことなのか」 百福も初めての経験に驚きました。
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