「30年で人口30%減」イタリア・トリノ、都市再生の道筋 フィアットとともに歩んだ伝統と革新が共存
北イタリア・ピエモンテ州の州都トリノ。かつては「イタリア王国」最初の首都があった場所で、「イタリア共和国」となった今は第四の都市として知られる。トリノは19世紀初めから工業都市として繁栄し、第二次世界大戦後はさらに急速な成長を遂げ、各地から大勢の労働者が集まった。この発展に寄与したのが、イタリアを代表する自動車メーカー・フィアット(FIAT)だ。大工場を構え、時代と共に大きく発展した。 しかし20世紀後半、事態は急変する。フィアットは工場閉鎖を迫られ、生産を縮小すると、フィアットに依存していたトリノ市も衰退。人口が1970年以降の約30年間で30%近く減少。一時は危機的状況に陥った。そこで市が復活の方法として選んだのが「脱工業化」だった。イノベーションを呼び込み、スマートシティとして都市再生の道を歩んでいる。
フィアットなしではトリノの歴史は語られぬ
トリノのかつての繁栄の象徴、フィアット。1899年に設立されたこの会社は、モンキー・パンチ氏原作の『ルパン三世』でルパンが愛車としている「フィアット500」などを世に送り出してきた。今でも愛好家は多い。
フィアットの製造工場の中で最大といわれたのが「リンゴット工場」だ。1923年に完成し、長い間最大の生産拠点として君臨し、生産のピーク時には最大で約1万人の労働者が働いていたと言われている。5階建ての建物の1階から生産ライン始まり、上の階へ上がるほどに自動車が組み立てられていく。5階で組み立てが完成すると、屋上のテストトラックで納車前にテストを行い、出荷される仕組みだったそう。このほかにも、積み出し用の鉄道基地があるなど、ユニークで合理的なアイディアが詰まっていた。 第二次世界大戦中、激しい空襲を受けるなど大きな被害を受けた。しかし戦後、「マーシャルプラン」という欧州復興計画で割り当てられた援助により、工場は再建。自動車生産が再開する。復興が進むにつれて、イタリアの一般市民の所得も上がり、自動車の購入がさらに進んだ。 大衆向けのフィアット製の車は、比較的手頃な価格な上、可愛らしいデザインで飛ぶように売れた。当時はトリノの付近ではまだ公共交通機関の発達が追いついておらず、隣村に行くのも大変だったという生活が、自動車の流通で一変したという。市民の移動範囲が大幅に拡大し、利便性も向上した。 好調なフィアットのもとには、労働者が大勢やってきた。おかげで、トリノ市の人口は激増。1950年代前半には約70万人だったのが、1970年ごろには約120万人にまで増加した。 ただ繁栄はずっと続くわけではない。1970年代のオイルショックと世界的に競争が激化したことなどにより、フィアットはサプライチェーンの再構築を余儀なくされた。会社は当時、自動車工場で人員削減や配置転換を実施。労働者らは強く反発した。ストライキを5週間も続けたことがあったという。 またある日には4万人のフィアット従業員と支持者らが職場復帰の権利を求めてトリノを行進したという当時の報道が残されている。しかし経営不振は止められず、工場が次々に閉鎖され、10万人近い労働者が解雇されたそうだ。フィアットには地方からの労働者が多く在籍していたため、解雇を受けて故郷に戻る人や、職を求めて別の都市や海外へ出て行く人が相次いだ。 フィアットにどっぷり依存していたトリノ市も大きな損失を受けていた。まず人口は1970年ごろには119万人いたが、2001年には86万人に落ち込み、30年で約30%減少。経済的な打撃も相当大きかった。