豊臣秀吉が愛飲した、お寺の酒とは? 寺院で確立された「日本酒づくりの原型」
日本酒はかつて、寺院で盛んに製造されていました。特に室町時代に盛り上がり、当時の寺院は最先端の技術で、極上の酒造りを行っていたといいます。豊臣秀吉も魅了したという「寺の酒」とはどんなものだったのでしょうか? 酒蔵コーディネーターの髙橋理人さんによる書籍『酒ビジネス』より解説します。 豊臣秀長が城主を務めた大和郡山城 ※本稿は、髙橋理人著『酒ビジネス』(クロスメディア・パブリッシング)を一部抜粋・編集したものです。
仏教とともに酒づくりが民間に広まった鎌倉時代
鎌倉時代の一大トピックと言えば、日本初の武家政権が誕生したこと、つまり、これまで貴族が行っていた政治を武士が行うようになったことでした。 これに伴い、宗教や酒づくりも民間人に広まっていきました。仏教はそれまで貴族のたしなみでしたが、民間人のための仏教が誕生しました。例えば、「南無阿弥陀仏」と唱える浄土宗・浄土真宗などが有名です。 同じく、酒づくりもこれまでは国や寺が主役でしたが、民間でも酒づくりが広まっていきました。その当時のトピックスをいくつかご紹介します。
古酒が大好きだった日蓮上人
「南妙法蓮華経」でおなじみの日蓮宗の日蓮上人。彼の信徒からもらった酒に対するお礼の手紙が残っています。 「人の血をしぼれるが如くなるふるさけを仏、法華経にまいらせ給える女人の成仏得道疑うべしや(人の血を絞ったような古酒を仏・法華経にお供えされた女性〈=酒をくれた信徒〉が成仏得道することは疑いようがない)」と綴っており、非常に喜んだ様子でした。 ここで注目すべきは「古酒」という記述です。この時代には古酒が飲まれていたことがわかり、その古酒が「人の血」のような色だったことまでリアルに伝わってきます。
日本初の禁酒令と酒税
民間に酒が広まっていく中で、風紀が乱れていきました。そこで鎌倉幕府は1252年に、日本初の禁酒令である「沽酒(こしゅ)の禁令」を発令します。ちなみに「沽酒」とは、酒の売買のことを意味しています。 これは、酒の売買を禁止するとともに、家1軒につき貯蔵用の甕(かめ)は1つに制限し、残りは壊されてしまいました。鎌倉市内だけでも、3万7000個もの甕が破壊されたという記録が残っています。しかし、鎌倉幕府は2度の元寇により、財政が逼迫。そこで、日本初の酒税を課すことにしました。これにより、「禁酒令」は有名無実なものとなっていきました。