豊臣秀吉が愛飲した、お寺の酒とは? 寺院で確立された「日本酒づくりの原型」
「寺の酒」を終わらせた織田信長、花見を始めた豊臣秀吉
平安時代以降、「美味しいお酒」の代名詞は「寺の酒」でした。取引される値段も高く、極上の酒とされてきました。しかし、この戦国時代に転機が訪れます。その引き金を引いたのが、織田信長です。当時の寺は財力もあり、僧兵という強大な武力を持っていました。つまり、武士と寺は権力争いをする敵対的な関係にあったのです。 織田信長は比叡山延暦寺の焼き討ちに代表されるように、寺の力を弱体化させ、財源であった酒づくりもできないようにしていきました。こうして栄華を極めた「寺の酒」の文化は、衰退の一途を辿ることになりました。 寺の力が失われる中で例外として生き残ったのが、大阪の天野山金剛寺の「天野酒(あまのさけ)」でした。非常に評判のいいお酒で、特に豊臣秀吉から愛されていました。 豊臣秀吉の人生最後の豪遊と言われるのが、1300名の人を集めた「醍醐の花見」でした。この日のために各地から集めた700本もの桜を醍醐寺に植林し、建物や庭園を作りました。「桜の木の下で酒を飲み交わす」という現代の花見スタイルの元祖のようなイベントです。そして、この花見でオフィシャルの酒として振る舞われたのが「天野酒」でした。 江戸時代は武士への給料が「米」で支払われたように、お酒づくりだけでなく通貨としても米が使われていた時代です。その中で、米価の調節機能を維持するために、酒造業は不可欠として、城下町を中心に宿場町や門前町など、町方酒造業は完全に酒造を禁止されませんでした。 米は生ものなので、豊作になれば価格が下がり、凶作になれば価格が高騰するので、物価にも影響します。そのため、江戸幕府は米の価格をいかにコントロールするか、その需給調整が課題となっていました。 大量の米を消費する酒造業は、幕府が重要視する産業となりました。米が余れば酒づくりは奨励されますが、凶作や飢饉では米が不足し、価格が高騰すれば米の供給を増やすために、酒造制限を実施しなければなりませんでした。 江戸幕府は「酒株制度」によって酒づくりを免許制にすることで、酒の製造量をコントロールしました。さらに、当時の酒は1年に5回、つまり、1年を通してほぼつくり続けていたのですが、「寒造り令」によって、秋以前の製造を禁止しました。 寒い方が品質面では酒づくりに有利なので、冬に集中的に大量生産を行うようになりました。さらに、麹を製造する部門、米を蒸す部門などと分業をして、組織的に酒づくりを行う杜氏制度も成立しました。これまで手工業だったお酒づくりの工業化であり、まさに酒の産業革命と言えます。 さらに、安定した酒づくりのために腐敗の防止を目的として、加熱殺菌の「火入れ」、アルコール添加による「柱焼酎」などの技法もこの頃に一般化しました。この「柱焼酎」は、私が愛してやまない現代の本醸造にもつながる技術です。このように江戸時代は、現代に通じる酒づくりの技術が確立した頃でもありました。
髙橋理人(酒蔵コーディネーター)