【鉄道と戦争の歴史】鉄道に目をつけたプロイセン王国─普仏戦争は日本の鉄道建設に多大な影響を与えた─
昔から戦争は、さまざまな技術を進歩させると言われている。産業革命により生み出された鉄道も、例外ではなかった。その機動力に目をつけ、いち早く戦争活用に成功させたのが、普仏(ふふつ)戦争におけるプロイセンであった。 明治2年(1869)、成立して間もなかった明治政府内で、鉄道や通信の建設に関する論議が起こった。その時は政府高官の誰ひとり、鉄道を軍事利用することなど考えていなかった。その翌年、新橋~横浜間の建設工事が決定したことで、イギリスから建設師長としてエドモンド・モレルが招聘される。その際にモレルは大隈重信(と伝えられている)に、ゲージ(線路の幅)をどうするか尋ねた。大隈は「幅が広いと建設費がかさむ。日本は狭いし贅沢はできないから狭いゲージで十分」と答えた。こうして日本の鉄道は、3フィート6インチ(1067mm)で建設されることになった。 ちょうど同じ時期の1870年7月、ヨーロッパで普仏戦争が勃発した。これはドイツ統一に邁進していたプロイセン王国と、その障害となっていたフランスとの間に起こった戦争である。戦争が始まる前、プロイセンは参謀総長モルトケ(大モルトケ)の命で、戦争に使えるように国内の鉄道を9条に増強していたのである。 この戦争に際して、フランス軍は7月15日から兵の動員を開始していた。一方のプロイセン軍は、翌16日から動員を開始。そして鉄道網をフルに活かし、プロイセン軍38万人が最前線に集結したのが8月3日であった。鉄道を4条しか持っていないフランスは、1日早い動員をかけたうえ、移動距離が遥かに少ないにもかかわらず、集結した兵力は25万人に過ぎなかった。こうした輸送能力の違いも要因となり、普仏戦争はわずか10カ月という短期間でドイツ帝国(1871年1月18日に成立)が勝利した。
明治11年(1878)、山県有朋(やまがたありとも)が参謀本部長に就任すると、普仏戦争の結果を受け鉄道を軍事利用することを強く意識し始めた。さらに明治18年(1885)、ドイツ陸軍を模範とするために、モルトケ参謀総長が推薦してくれたメッケル少佐を教官として招聘。明治20年(1887)には「鉄道論」が天皇に上奏された。 これは「鉄道は戦時輸送に配慮してルートを決める」ということと、さらに「単線の鉄道は軍事輸送に不適切」という2点が骨子となったものであった。補足で「軍用列車は広軌で機関車は馬力が強く、客車は兵士の個人装備も積める構造に」と記されていた。 当時の日本には、軍隊を海外に派遣する思想はなかった。日本に攻め寄せてきた敵軍を、東京湾の入口など主要な場所に建設した要塞で迎撃する、という考えだったのだ。そのため外国の軍隊がどこかに侵攻して来た際、鉄道網を使い防衛軍を素早く展開することを一番に考えていたのである。 そのためにも大動脈となる関東と関西を結ぶ鉄道整備は、焦眉(しょうび)の急とされていた。加えて参謀本部では、大量輸送に向いた広軌を希望した。また陸軍は、敵艦の艦砲射撃や破壊工作に晒(さら)される恐れがある海沿いのルートにも反対であったため、内陸部を通る旧中山道沿のルートを要望している。 しかし山岳地帯を通すには、莫大な予算と時間を要してしまうため、鉄道建設の責任者であった井上勝(いのうえまさる)は、総理大臣の伊藤博文に中山道から東海道へのルート変更を訴えた。参謀本部長から内務大臣となっていた、山県の説得も願い出ている。財政難は政府全体が抱える問題なので、内務大臣の山県にも責はある。鉄道建設の緊急性を考慮し、山県も妥協せざるを得なかった。 こうして中山道案は東海道案に変更され、明治22年(1889)7月1日に新橋~神戸間が全通した。その頃、日本は朝鮮半島の主権を巡り、清国との関係が悪化し始めていた。奇しくも開通したばかりの鉄道が、すぐさま戦争の帰趨(きすう)を左右することになるとは、思ってもいなかったのではないだろうか。
野田 伊豆守