内気な少年が「冷酷な皇帝」に…ナポレオン・ボナパルトの生涯
なぜ英雄に? ナポレオンの功績と功罪
ナポレオンが英雄視されてきた理由は、その絶頂期に欧州大陸の大部分(イギリス、ロシア、オスマン帝国、スウェーデンを除く)を勢力下においたからです。 フランス革命後に登場した“強き皇帝”であり、戦争を戦い抜き、領土拡大の野心に燃えた人物でした。短くもダイナミックな人生は分かりやすいヒーロー像であり、その印象が後世に伝えられました。 しかし同時に、“残忍な戦争屋”でもありました。ナポレオン戦争によって失われた命は300~500万人とも言われ、銃殺や惨殺を躊躇しない“悪魔の指揮官”とも言われています。 1808年のスペイン反乱での虐殺をはじめ、ナポレオン軍が各地で略奪や破壊行為を重ねたことでも知られていますが、同時に多くのフランス人も戦争で命を落としました。「欧州天下」の実現のため、泥沼の戦いを続けたナポレオン。ついていかねばならないフランス兵こそが、最大の犠牲者だったのかもしれません。 戦争以外でも、歴史に残るナポレオンの“悪行”の一つに「ハイチ独立の妨害」があります。 フランス領サン=ドマング(現ハイチ)は、フランス革命当時、独立の気運が高まっていました。1794年2月にフランス国民公会は植民地における黒人奴隷制廃止を決議し、1800年、黒人指導者のトゥーサン=ルヴェルチュールが独立を宣言しました。 しかし、ナポレオンが権力の座に就くと、トゥーサン=ルヴェルチュールを逮捕し、独立運動の弾圧に転じます。1802年に黒人奴隷制を復活させ奴隷貿易も再開したのです。 もちろん、ナポレオンには多くの功績もあります。 近代法典の基礎となる「民法典(ナポレオン法典)」を編纂し、多くの国の民法に影響を与えました。中央銀行や教育制度の設立し、フランス革命の理念(自由、平等、友愛、人権)の拡散、私有財産の不可侵や信教の自由を保証する等、社会の根幹となる制度や概念を世界に広めた人物でもあります。 しかし民法典では家父長制を定め、「夫が妻の不貞行為に遭遇した場合、妻を殺害したとしても罪にならない」としたことでも有名です。この制度がフランス、そして世界の「男女平等」の実現を遅延させることになりました。