内気な少年が「冷酷な皇帝」に…ナポレオン・ボナパルトの生涯
栄華の成れの果て、没落へ。
ナポレオンの絶頂期は、1805~1807年頃です。1805年12月、ナポレオンはアウステルリッツの戦いに勝利しました。 フランス、ロシア、オーストリアの3つの帝国の皇帝が1つの戦場で戦ったこの戦いに勝利し、悦に入ったナポレオンは凱旋門の建設を命じました。1807年の戦争では苦戦を強いられたこともあったものの、この年にプロイセンとロシアと講和し、ナポレオンの勢力が最大となりました。 現在ではパリの象徴であり観光名所の一つでもあるこの凱旋門ですが、実はナポレオン自身は完成(1830年)を見ることなく死んでいったのです。 ナポレオンの没落の大きなきっかけとなったのは、1812年のロシア遠征です。ロシア側の司令官の狡猾な策にはまり、無残な敗北に終わりました。 この敗北により、欧州各国は「反ナポレオン」の意向をはっきりと打ち出し始めます。対仏同盟(第6次)がフランスを攻める中、ロシア遠征で兵力を失っていたフランス軍は苦しみます。負け戦を重ね、1814年3月31日にはウェリントン公爵率いるイギリス軍によって首都パリが陥落。 4月にナポレオンの無条件退位が決まり、現在はイタリア領のエルバ島に追放されました。 一度は自死を図ったものの死にきれなかったナポレオン。しかし、ここからまた這い上がろうとしたところがナポレオンの凄いところです。 ナポレオンの後釜を上手く探せなかった各国首脳たち。仕方なく、フランス革命で排除したはずのブルボン家からルイ18世(処刑されたルイ16世の弟)を連れてきて王位に据えました(フランス復古王政)が、フランス市民には不評でした。 この事を知ったナポレオンは、1815年2月26日にエルバ島を脱出。王制に反対する農民や旧部下の支持を得て再度パリに戻り、なんと帝政を復活させ皇帝に復帰するのです。このパワーも、ナポレオンの英雄イメージの理由でしょう。 しかし、“ナポレオン・リターンズ”は長くは続きませんでした。 1815年6月18日、イギリス・プロイセン連合軍と戦ったワーテルローの戦いで完敗。「百日天下(実際には95日)」は終わりを告げました。ナポレオンはイギリス艦隊に投降。“にわか皇帝”は退位し、南太平洋に浮かぶイギリス領セントヘレナ島に幽閉されました。 セントヘレナ島の高温多湿な気候と劣悪な居住環境は、ナポレオンの体を蝕みました。6年間苦しんだ後の1821年5月5日、ナポレオンは死去しました。享年51歳。死因には毒殺説もあるものの、胃がんによるものという説が今でも有力です。