内気な少年が「冷酷な皇帝」に…ナポレオン・ボナパルトの生涯
30歳、若き独裁者の誕生
革命初期のトゥーロン攻囲戦の勝利で名をあげ、“貴族出身”という肩書きも功を奏してどんどん出世していったナポレオン。 王制が倒れ共和制になった後には、オーストリア帝国および欧州各国が革命に干渉したことから「フランス革命戦争」が起こりました。ナポレオンは1796年4月~10月までのイタリア遠征に司令官として抜擢されます。イタリア側からオーストリア軍を攻撃し、連戦連勝。“戦争の天才”ぶりをいかんなく発揮しました。 この戦いから帰還すると、ナポレオンは「英雄」として迎えられました。そして、1798年のエジプト遠征(イギリスとの戦い)も成功させた後、勝負に出ました。 総裁政府(共和制後半期)が弱体化していたため、1799年11月にクーデター(ブリュメール18日のクーデター)を起こし権力を掌握。同年12月24日に統領政府の発足を宣言し、自ら第一統領に就任。30歳にして、フランス政府のトップの座についたのです。 当時のフランスはイギリスを中心とする欧州各国に包囲された状態でしたが、ナポレオンは領土の奪還やイギリスとの講和を実現させます。1802年に自身を「終身統領」とする憲法を発令。1804年5月18日には元老院決議により「ナポレオン1世」として「皇帝」の座につきました。34歳のときでした。 王制廃止を掲げたフランス革命をきっかけに名を挙げたにもかかわらず、自ら「皇帝」となったナポレオン。「君主や皇帝のいない体制=共和制」支持派だったはずなのに、何だか…矛盾しています。しかも皇帝の座は世襲制であり、ナポレオンの子孫に継がせていくことになります。 皇帝即位後ではあるものの、1804年11月に皇帝即位の是非を問う国民投票が行われたこと、そして自らの功績で「皇帝」の座を手にしたことにわずかながら民主主義の香りは残すものの、実質は新たなる独裁者の誕生でした。 その後「全欧州を掌握する」という野心を掲げ、ナポレオン戦争を展開していきます。