お坊さんがおだやかなのは決して修行の成果だけでなく…禅僧・枡野俊明が説く<喜怒哀楽に振り回されない思考法>
◆うなぎの匂いを置いてくる 誤解のないようにお話ししておきますが、私たち禅僧は、「おだやか」になることを目的として、修行しているわけではありません。 厳しい修行生活を送るうちに、結果として、おだやかに生きられるようになっていく。 そう表現したほうが、私の実感に合っています。 本来、人間の喜怒哀楽は、振れ幅が非常に大きなものです。 ポジティブからネガティブへ、あるいはネガティブからポジティブへと、私たちを振り回します。 ところが修行生活を終えると、なにが起きても、「お寺の修行僧堂での生活に比べたら大したことないな」と、余力を持って受け止めている自分に気が付くのです。 なにしろ、修行中は、ろくに食べられず、眠れず、足を伸ばすことすら、できないのです。 正座と坐禅ばかりで足はずっと痺(しび)れたまま。 動けるのは掃除のときだけ。 修行に入りたての頃は、入浴も満足にさせてもらえませんし、わずかばかりの食事ではお腹が減って夜も眠れません。 私は半月で10キロも痩せました。 それまでの「当たり前」を奪われたとき、人間は初めて「当たり前」のありがたさがわかる、ということなのでしょう。 いまでは、ちょっとやそっとのことでは、動じません。
◆一時の感情に「囚われない」ことを大切にする「禅」とは もっとも、禅僧がおだやかでいられるのは、修行の成果とばかりとはいえないように思います。 禅は一時の感情に「囚われない」ことを大切にします。 囚われない心とは、どのようなものか。 それは、お寺にもたくさん生えている「竹」に似ています。 どんな風にもビクともしないコンクリートの柱は、頑強そうに見えてその実、脆(もろ)いもの。 一定以上の衝撃を受けると、ポキリと折れてしまいます。 しかし、竹は違います。 強風で大きく撓(たわ)むことがあっても決して折れず、風がやめばまた、まっすぐ空に伸びていきます。 不意に感情が振れることがあっても、またすぐに本来の状態に戻ることができる。 それが囚われない心のありようです。 囚われない心と聞いて思い出すのは、「一休さん」の愛称で知られる一休禅師のエピソードです。 あるとき、一休禅師が弟子を連れて町を歩いていると、どこからともなく、うなぎを焼くいい匂いがしてきました。「おいしそうだな」。 一休禅師がそう呟くと、弟子の一人が「お師匠さま、仏道を生きる者が、そんな生臭いことでいいんですか」と窘(たしな)めました。 その後、一行がお寺に帰り着くと、弟子は言いました。 「さっきのうなぎは本当にいい匂いでした。食べたかったですね」 一休禅師はアハハと笑って答えました。 「まだうなぎに取りつかれているのか。わしは、あの場にうなぎの匂いを置いてきた」 一休禅師ほどの名僧も、うなぎの蒲焼きの匂いが漂ってくれば、「いい匂いだな、食べたいな」と心が揺れるのです。 それは、人間である以上は当たり前の感情であり、僧侶だって例外ではありません。 一休禅師が常人と異なるのは、それを後々まで引きずらないことです。 一方の弟子は、町では殊勝にも我慢しているふりをしましたが、お寺に帰ってもうなぎに心を囚われたままでした。 このエピソードは、おだやかに生きるヒントを、私たちに教えてくれているように思います。 繰り返しますが「おだやか」とは喜怒哀楽がない状態ではありません。 一休禅師も、女性を愛し、お酒を愛した破戒僧でした。おおいに喜び、怒り、哀しみ、楽しむ人生を歩んだことでしょう。 けれども、一時の感情に囚われることなく、その場に「置いてくる」ことができる。 「これ以上、あれこれ思い悩むのはやめよう!」と自分に言い聞かせたら、そのとおりにできる。 人間、かくありたいものです。 ※本稿は『おだやかな人だけがたどり着く場所』(草思社)の一部を再編集したものです。
枡野俊明