お坊さんがおだやかなのは決して修行の成果だけでなく…禅僧・枡野俊明が説く<喜怒哀楽に振り回されない思考法>
◆禅においては、心おだやかに過ごす日々そのものが修行 私自身、その修行をしている最中です。 かつての私といまの私、比べてみると、「随分とおだやかになったな」と思います。 恥ずかしながら、昔はしばしば感情に振り回される人間でした。 売り言葉に買い言葉で、「あれはまずいことをした」と後悔していることも、一つや二つではありません。 坐禅をすれば、邪念ばかりが脳裏に浮かびました。 禅は、自分のやるべきことに没頭する「無心」を大切にしますが、自分がその境地に達することができるとは、到底思えませんでした。 しかしいまなら、無心に近づく方法がわかります。 心に浮かんできた感情や考えは、そのまま放っておけばいい。 浮かんでは消え、浮かんでは消えていく様を、眺めていればいい。 「感情に囚われるな、邪念を払え」 と言われると、いっそう囚われるのが人間の常です。 それは、「イタズラするな」と叱られた子どもが、かえってイタズラせずにはいられなくなるのと同じ。 修行を積んだ僧侶だって、実はそうです。 ならば、そのまま放っておくのが最善手。 そうすれば、私たちの心をかき乱す想念は、ひとりでに消えていきます。
◆たとえるなら、人の心は水面のようなものです 一時の感情や邪念は、水面に投じられる石であり、石は水面に波紋を描きます。 その波紋を鎮めることなど、人間にできるでしょうか。 手を差し伸べれば、その手がまた新たな波紋を作るだけ。 そんなときは、波紋が広がる様子を、ただ眺めていることです。 じきに波紋は微かなものとなり、静かな水面が戻ってくるでしょう。 心も、同じことです。 「おだやかに生きよう」と力み、そのときどきの喜怒哀楽に抗(あらが)おうとすると、かえって感情は大波となって、あなたをのみ込むでしょう。 そうではなく、感情が生まれ、消えていくのに任せてみるのです。 どうか、覚えていてください。 おだやかな人=喜怒哀楽がない人、ではありません。 むしろ、喜怒哀楽はおおいに結構。 喜怒哀楽がなければ、人間としての成長も、豊かな人生もあり得ないからです。 ただし「感情に囚われない、振り回されない」ことです。 そんな生き方に少しでも近づく道を、禅は説くのです。