あたたかな星の家
全宇宙を統べるシステムを求めて
詩人は、空に読み取れるのは「物語」だけではない、と述べる。 「私は歌おう、秘められた知性で自然を統べる神を、 天と地と海に拡がり、この壮大な構造物を 一様に繋ぎ合わせて調整する神を。 また全宇宙が相互の共感を介して生きており、 理法の働きに寄って動かされていることを……」(前掲書) 天と地がひとつの神の法則のもと、大きなシステムとして動いており、天の恩恵によって人間はそれを感知できる。そう謳われている。 現代を生きる私たちは、この太陽系と12星座のあいだにある、天文学上のスケールの差を知っている。太陽系が宇宙のほんのちいさな欠片でしかなく、この地球が銀河どころか太陽系の中心ですらないことを知っている。全宇宙を統べるシステムは、今は天文学や物理学の世界で研究されている。私たちもそのシステムの一部であり、その点では、この一文は的外れとは言えない。ただ、現代を生きる占星術は、宇宙全体を統べる理法とはもはや、重ね合わせることはできない。 現代では科学技術が発達し、社会的に星占いは「迷信」として片付けられている。しかしその一方で今も、星占いを愛好する人々がたくさん存在する。かくいう私もその一人である。星占いには(少なくとも今のところ)科学的裏付けは存在しない。オカルトであり、ファンタジーであり、フィクションである。「アートだ」と言う人もいる。おおむねそういうことになっている。占星術にまつわる古い文献を研究する学者の方々には、現代を生きる占星術の世界、つまり「アヤシイ占い師」の世界と「一緒にされないようにしよう」と、厳密に距離を置く態度が見られる。それはまったく正しいことである。
占星術は死んでいない
ただ、学問の世界からは故意に無視されていたとしても、星占いはこの世の中で、残念ながらまだ死んでいない。星占いを語る言葉も、存在し続けている。本書で「位」と訳されているものを、現代の日本の占い手たちは一般に「ハウス」、「室」と呼ぶ。本書で「運の女神(フォルトゥーナ)」と訳されている言葉は、「パート・オブ・フォーチュン」となる。そのように今を生きている言葉がある。 現代の日本の占い手たちが本書を開くときには、おそらくそんな再度の「翻訳」をしながら読み進めることになる。ささやかな疎外感の中、それでも古代ローマの詩人の歌を「21世紀の日本を生きる私たちのものでもある」と感じながら読み進めることになる。こんな読み方は多分、作り手には想定されていないだろう。邪道なのである。それでも本書を「自分の星座の所を探して読む」人はいる。私も、白水社から出たフランス語版からの翻訳に最初に触れた時は、そうだった。占星術が現代を「生きている」とは、そういうことである。 私たちが占星術の中に読み取ろうとするのは、私たち自身、人間自身の人生の物語であり、歴史の物語である。それは文字通りの「ナラティブ」で、科学的客観的事象の記述などではない。私たちの思いが世界をどう捉え、世界の中の私たち自身をどう捉えるか、というそのことに尽きる。少なくとも私は、そう考えている。人間に深く刻みつけられてなかなか逃れられない象徴的思考、その思考法が世界を捉え、星を捉え、人間を捉える。星占いはその文脈の中にあって、現代にも生き残っている。