【ニューイヤー駅伝】10000m日本記録保持者の塩尻和也とSUBARUのエース清水歓太 群馬出身同学年ライバルの軌跡
3年時には塩尻が3000m障害でインターハイ優勝。記録も高校歴代2位(当時)をマークし、日本の3000m障害を担う選手と期待され始めた。清水も「そこは見て見ぬ振りをしていました。勝負は5000mだぞ」と塩尻の勢いへの対処に困っていたようだ。 大学でも塩尻が加速する。順大2年時に3000m障害でリオ五輪に出場。3年時には10000mを中心に出場し27分47秒87をマーク。4年時には箱根駅伝エース区間の2区で1時間06分45秒と、20年ぶりに区間日本人最高記録を更新した。清水も早大3年時に箱根駅伝9区区間賞で走ったが、塩尻との差は開く一方だった。 「大学では駅伝に出るにはどうしたらいいか、自分のことで精一杯で、ライバルだっていう意識も薄くなっていました。しかし箱根駅伝の選手名鑑のライバル欄には、笑われてもいいから塩尻の名前を載せていました。そこをブラしてしまったら、走ってもいないのに負けてしまう気がしたからです」。 大学時代の2人は、「おそらく同じレースを走っていない」(塩尻)。しかし清水がその気持ちを持ち続けたことが、SUBARU入社後の成長につながっていく。 ■SUBARUのチーム改革とともに成長した清水が記録で逆転 清水の入社2年目(20年)に、SUBARUが東日本実業団駅伝で予選落ちをしてしまう。 奥谷亘監督はそれを機にチーム改革に乗り出した。その中心が選手の自主性を引き出すことだった。練習メニューを選手自身が立案したり、トレーニング方法も選手が外部スタッフに協力を依頼したりした。 「僕は入社1年目の終わりから股関節のケガをして、3年目の5月くらいまで試合に出られなかったんです。2年目の11月に東日本予選で落ちて、チームが変わらなきゃいけないタイミングと重なりました。ケガからようやく回復した時期で、自分も背水の陣じゃないですけど、選手生命を懸ける覚悟でした。ケガをしていた間は自分でメニューを考えていたので、そのやり方を突き詰めてやれたことがよかったと思います。同じくらいの熱量でチームにも向き合いやすかったですね。同期の梶谷(瑠哉、28)がキャプテンになり、自分たちの世代が中心に進められた感じです」。