夫との関係は冷え、正妃のいる敦道親王と恋仲に...和泉式部がはまった「忍ぶ恋の沼」
平安時代中期、多くの文学作品が誕生した。長編小説や日記、随筆、和歌......。文学性に優れ、歴史的価値の高いこれらの作品を残した「作家」たちは、いかなる人物で、どのような人生を歩んだのか。本稿では、藤原道綱母、そして和泉式部について紹介する。 【写真】紫式部が生きた平安時代の寝殿造庭園を再現した公園
はかない身の上を日記に綴る・藤原道綱母 936?~995年
平安時代に勃興した文学ジャンルに「日記文学」がある。仮名文字で書かれていることが第一の特色で、「日記」とはいっても、必ずしも日次の記録という体裁をとらない。事実の記録を主としつつも、フィクション的要素が加わっても不可としないこと、外形的・体験的事実の記録よりも筆記者の内面・私的心情の叙述が目立つことなども、日記文学に共通する要素である。 その嚆矢は承平5年(935)の成立とされる紀貫之の『土佐日記』だが、女性に限ると、藤原道綱母による『蜻蛉日記』が現存最古となる。 藤原道綱母は、陸奥守や伊勢守などを歴任した藤原倫寧の娘で、中流貴族の生まれといえよう。本名は不明。「藤原道綱母」というのは彼女が夫藤原兼家とのあいだにもうけた一子の名にもとづく通称である。生年も不詳だが、承平6年(936)と推定する説がある。 『蜻蛉日記』は一言でいえば、道綱母による自叙伝的回想録で、3巻から成るが、内容の中心は夫との不安定な結婚生活である。 美貌と和歌の才に恵まれた筆者が、藤原北家嫡流の御曹司兼家の求婚を受けてその妻となったのは、天暦8年(954)のこと。当時26歳の兼家は右兵衛佐で、まだ地位は低かったが、父師輔は右大臣であり、将来の栄達は間違いなく、作者にとってこの結婚は、まさしく玉の輿に乗るようなものであった。結婚翌年には道綱が生まれるが、しかし幸せな日々は束の間で、やがて夫の愛は冷めはじめる。 当時、貴族社会では一夫多妻が許容され、かつ男性(夫)が夜に女性(妻)の家を訪ねる「通い婚」が普通だった。兼家はその典型で、作者と結婚する以前に、すでに時姫という妻がいて、長子道隆をもうけていた(兼家と時姫との間の三男が道長)。そのうえで兼家は作者と結婚し、彼女の邸に通いはじめたのだ。 ところが、兼家は次第に他の女性のもとに通うようになり、作者邸への訪れは間遠になってゆく。いわゆる「夜離れ」である。病気の兼家を見舞ったことで二人の愛情が深まるという一幕もあったが、最終的には兼家の訪問は完全に途絶え、夫婦関係は終焉。下巻の最後は天延2年(974)で、作者は39歳ぐらいになっていたとみられるが、この時点での彼女に残された唯一の希望の光は、愛息道綱の将来であった。 道綱母は『蜻蛉日記』の序の中で、「天下の人の品高きやと問はむためしにもせよかし」、つまり、平安朝セレブとの結婚生活の実際に興味がある人に向けて本書を書き綴ったと記している。しかし、深い洞察と陰影に富んだ文体によって叙述された「女の一生」には、時代を超えて読者に深い感慨をもよおさせるものがある。 道綱母は、晩年は鴨川近くの広幡中川の邸で過ごし、長徳元年(995)に没した。『蜻蛉日記』にみられる濃厚な内面描写は、『源氏物語』に大きな影響を与えたといわれている。 なお、題名は、上巻末に「あるかなきかのここちするかげろふの日記といふべし」(陽炎のようにはかない身の上にある女の日記)とあることに拠っている。