夫との関係は冷え、正妃のいる敦道親王と恋仲に...和泉式部がはまった「忍ぶ恋の沼」
情熱的な和歌を残した恋多き女・和泉式部 生没年不詳
女流日記文学の魁である『蜻蛉日記』の後を承けるような形で登場したのが、『和泉式部日記』である。 奔放な恋を重ね、情熱的な和歌を数多くのこしたことで知られる和泉式部は、昌子内親王(冷泉天皇の皇后)に仕え、後に越前守となった大江雅致を父とする。和泉式部というのは通称(女房名)で、例によって本名・生年も不明だが、天元元年(978)前後の生まれとする説が優勢だ。 長徳2年(996)頃、和泉守橘道貞と結婚。和泉式部の称は、この夫の官名に由来する。道貞はかなり年上だったとみられるが、やがて夫婦間に不和が生じ、和泉式部は冷泉天皇第三皇子の為尊親王との恋に走る。道貞との不和と、親王との恋のどちらが先であったのか、和泉式部と親王がどうやって知り合ったのかはっきりしないが、二人の恋仲がはじまったのは長保3年(1001)頃のこととされる。 プレイボーイとして知られた為尊親王と和泉式部の恋愛は、世間の好奇の目をひいたものであったらしいが、長保4年(1002)6月に親王は病死してしまう。まだ26歳であった。 恋ははかなく終わったわけだが、ところが翌年、新たな恋がはじまる。相手は故為尊親王の同母弟敦道親王であった。敦道親王は兄より4歳年少で、文才に長けたロマンチストであった。当時、正妃(藤原済時女)がいたが、仲は冷めていたらしい。そんなとき、親王は和泉式部のことを知り、求愛したのだ。そして二人は、忍ぶ恋の沼に入ってゆく。 この熱愛の進展の様を、両者の贈答歌を核として記録したのが、『和泉式部日記』なのである。 記録の期間は長保5年(1003)4月十余日から翌年正月までの足かけ10カ月となっているのだが、『蜻蛉日記』と違って作者の回想録という形をとらず、「女」(和泉式部)と「宮」(敦道親王)を登場人物とする物語・小説のような体裁をとっているのが特色である。 そのために、日記そのものの作者は和泉式部ではない第三者なのではないか、この日記は式部と親王の和歌を材料としたフィクションなのではないかとする説もあるほどである。 当初は互いに疑心や躊躇があるが、10月に「手枕の袖」(恋人の腕を枕にするときに頭を載せる相手の袖)を詠む歌を応酬してからは、男女の心はすっかり相寄るようになる。 そして12月にはついに和泉式部は親王の邸に入り、年明け正月にショックを受けた親王の正妃が邸を去ってゆくところで、日記は終わっている。 しかし、この恋もさほど長くは続かなかった。寛弘4年(1007)10月に、敦道親王が27歳の若さで病没してしまったからである。 寛弘6年(1009)春頃、和泉式部は一条天皇の中宮藤原彰子のもとに出仕している。当時、彰子の父道長は娘の教育のために才媛を集めていたが、彼が和泉式部の歌才に注目し、招いたのだろうといわれている。このときの同僚が紫式部や赤染衛門である。 ほどなくして道長に仕えていた藤原保昌と結婚するが、かなり年上だった夫との仲は、あまりよくはなかったらしい。晩年の消息はよくわかっていない。 歌集に『和泉式部正集』と『和泉式部続集』があり、あわせて1549首もの歌が収められている。勅撰集に採られた歌は247首で、女流歌人としては最多である。一首を挙げておこう。 「暗より暗道にぞ入ぬべき遙に照せ山の端の月」(『拾遺和歌集』巻第二十) 自らが重ねる恋路を、「暗きより暗き道」に入ることにたとえたのだろう。
古川順弘(文筆家)