第67回グラミー賞ノミネート! 宅見将典インタビュー “グラミー賞を目指す”と公言してから実現までのサクセスストーリー
――そこから日本を想起させる音楽を作ることに繋がった? それも最初は気づいてなくて、向こうの“国技”で戦おうとしてたんです。ロックやジャズもアメリカ発祥のものですよね。もちろん日本人がやっても全然いいんだけど、向こうの国技であることは変わりない。僕もピアノとストリングスなどを使った、西洋音楽のインストゥルメンタルをやってたんですよ。でも「それじゃダメだな」と途中で気づいて。もっと個性が必要だし、自分にしかできない音楽をやらないといけないなと。ちょうどその頃に、友人であり仕事仲間でもあるBREAKERZのDAIGO君に「とりあえず着物とか着てみたら?」と言われたんですよ。 ――そうなんですね! DAIGO君は僕がSirenにいたときから繋がりがあって。アメリカでなかなか上手くいかなかった時期に「もっと目立ったほうがいいでしょ」って視覚的なプロデュースをしてくれたんですよ。坂本龍馬風に革靴、ハットを着物に合わせて。そこから音楽も変わっていきました。やっぱり和楽器だなと思って、三味線を買って、練習し始めて。自分の作品の中でどうブレンドするかを考えて、2019年に『HERITAGE』というアルバムを作ったんです。その作品を「コンテンポラリー・インストゥルメンタル・アルバム」というカテゴリーにエントリーして、プロモーションや広告も限界までやって……もちろん全部自己資本です。自分としてはできることはすべてやったチャレンジだったんですが、ノミネートされなかったんです。大きなお寺でMVを撮ったり、これ以上はないほど日本の美を追求したんだけど、結局ダメだった。非常に落ち込んだし、コロナもあって、「これ以上は無理かもな」とも思って……。 ――大きな挫折を経験した。 はい。それからしばらく経って「『HERITAGE』って英語だよな」と思って。遺産っていう意味なんですけど、英語にした時点で、日本の遺産とは取ってもらえない。そこから今度はアメリカ人が知ってる日本語をリサーチして。その中のひとつが『Sakura』だったんですよね。その後「もう1度頑張ってみよう」と思い立ち、2021年はお休みして、2022年(『第65回グラミー賞』)にチャレンジしたんです。和楽器の要素をさらに増やしたし、後はエントリーする部門も変えて。「ワールドミュージック」が「グローバル・ミュージック」に名称が変更されたタイミングだったし、そっちでいってみようと。 ――そして見事に受賞した、と。『Sakura』には和楽器の要素もたっぷり入っていますが、トラック自体は低音がしっかり効いていて、ヒップホップやR&Bに近い作りになってますよね。 そこは思いきり意識していました。「トラックにはしっかりローエンド(音域の低い部分)が出ていて、上物は日本的な楽器とアプローチ」というバランス自体は、日本の音楽シーンにはずっと前からあったと思うんですよ。ただ、そういう音楽はアメリカに浸透していなかったし、やっている人もいなかった。後はNAOKI TATEさんの声も大きかったと思います。彼はパーカッション奏者なんですが、声がすごくよくて。別の仕事でお会いしたんですが、「ワールドミュージック的な音楽をやるときは、絶対にこの人の声が必要だ」と思っていたんです。自由に歌ってもらったテイクから選ばせてもらったんですが、歌詞がなくても伝わるものがあって。楽器の中に声を混ぜるブレンド術が、『Sakura』の最大の発明だったかもしれないです。 ――先ほど「まだ他人事のよう」と仰ってましたが、グラミー賞を取ったことで、活動の状況はかなり変わったのでは? そうですね。以前から「グラミーは人生を変えてしまうよ」と言われることがあったんですよ。ノミネートされるだけでチヤホヤされて、ちょっとおかしくなってしまうような人もいたり。でも自分の場合は(受賞後も)軸はまったく変わってなくて。日本だとちょっとメディアに出るだけで芸能人みたいな扱いになりがちですけど、僕はあくまでも音楽家ですからね。昔のSirenでの経験も関係していると思います。バンドが上手くいかなくなったのは自分のせいだという思いもあるし、反省もあって……。年齢も年齢ですからね。受賞時は45歳だったので。 ――仕事の幅も広がってますよね。 はい、ありがたいことに。パラマウント社のライブラリー音楽の制作だったり、後はポリスのドラマーのスチュワート・コープランドに声をかけてもらって、彼のカバーアルバム『Message In A Bottle』に三味線で参加したんですよ。後は映画音楽。去年は映画『告白 コンフェッション』のサウンドトラックを担当させて頂き、ちょうど今、来年(2025年)公開の映画でも制作をさせて頂いています。