話せば話すほど「誤解」される!「自己語り」に潜む「一貫性」の落とし穴
私たちは、自分の話をするのが好きだ。 「私はこんな人である」「私はこんな苦難を乗り越えてきた」。 【写真】ウザすぎる「隙自語」リプライ… 気づけば日常は、無数の「自分語り」に溢れている。 しばしば揶揄の対象となる「自分語り」。 しかし、そこには実際、どのような「わるさ」があるのだろうか。 「自分語り」に陥らないためには、どうしたらよいのだろうか。 現代社会を覆い尽くす、過剰な「自分語り」に違和感を感じるあなたへ。 美学者・難波優輝氏による【連載】「物語批判の哲学」第2回へようこそ。 【連載】「物語批判の哲学」第2回:物語という誤解・中篇 >>まだお読みでない方は、第1回・前篇「面接にも広告にも…「人生は物語」に感じる違和感の正体!「ナラティブ」過剰の問題」もぜひお読みください。
自分語りは「改訂」を許さない?
第2回・前篇では、一見して似た構造を持つ「歴史的語り」がどのようなものであるか、ひとつひとつの特徴を丁寧に紐解くことで、「自分語り」との差を明らかにした。ここからさらに「自分語り」の危険性を詳しく見ていこう。 歴史的語りについて理解を深めた私たちは、しっかりした土台に立って、自己語りについて考えられるようになった。 まず、自己語りは歴史的語りの一種である。だが、歴史学的な歴史的語りではない。 私たちも歴史学者たちと同じく「過去制作」をするのだが、私たちはプロではない。素人の過去制作者なのである。素人であるがゆえ、過去に触れることで怪我をすることもある。 歴史学者が実践する歴史学的語りと日常生活における人々の自己語り、つまり、プロによる「過去制作」と素人による「過去制作」のあいだには、2つの大きな違いがある。 まず1つ目は、自己語りの「改訂排除性」である。 歴史的語りは、複数の語り手によってつねに批判可能である。その語りがよりよい「過去制作」であるかを検証するプロセスが明確化されており、その検証のプロセスを尊重する人々、たとえば歴史学者たちは、より深く過去を理解するために、同僚たちからの批判や資料、厳格な方法論を通じて自らの叙述を訂正し続ける。そこでは、「過去制作」が協同的に行われているのである。 そのため、たとえそれぞれの研究には限界があったとしても、歴史学者たちの実践の「総体」、協同プロジェクトとしての「過去制作」は、より賢く、洞察に満ちている。歴史学においては、このような実践を支えるような誠実さ、客観性、粘り強さといった美徳を身につけることが重視されていると指摘する哲学者もいる(Creyghton et al. 2016)。 これに対して、自己語りは、他人からの事実確認も訂正も乏しい状況で行っている。結果として、私たちは容易に歪んだ自画像を再生産してしまう。哲学者のラサムとピンダーの言うように、自己語りには、記憶違い、情動的終結〔感情的な理由づけ〕 、選択バイアス、確証バイアスがあり、これらが合わさって、出来事を誤って表現する傾向がある(Latham & Pinder 2023)。また、美学者のピーター・ゴールディが危惧するように、自己語りは、正しさよりも、自分自身が情動的に納得できるかどうかで語り方が決まってしまう(Goldie 2014; Latham & Pinder 2023)。 自伝の哲学者であるクリストファー・コウリーは、自己語りをする者は、自分に都合のよい過去をピックアップすることで、自分自身を欺くような微妙な形の自己欺瞞に対して「決定的に、そして本質的に脆弱である」と言う。それゆえ、「どのような自伝であれ、信頼できる記憶を持つ遠慮のない友人に定期的に相談しない限り、このような微妙な形の自己欺瞞に陥る危険性がある」と指摘する(Cowley 2014, 4)。 自分だけが自分の自己語りの適切さを判断できてしまうがゆえに、他者からの修正可能性がないため、独善的な自己語りに陥る可能性があるのだ。