話せば話すほど「誤解」される!「自己語り」に潜む「一貫性」の落とし穴
自分語りは「目的」に囚われている?
2つ目は、自己語りの「目的閉塞性」である。 自己語りは、これまでの自分の来し方を特定の目的に従って再配置する。たとえば、自分の人生を「成長物語」や「試練から立ち直るサクセスストーリー」へとまとめあげる際、私たちはしばしば、事実上存在しない必然性や運命的な「伏線」を見出そうとする。あたかも自分の人生がドラマティックな物語であるのように。 ここにいたって、自己語りは、歴史的語りに加えて、「物語的語り(narrative narrative)」であることが明らかになってくる。自己語りは、たんに素人による歴史的語りであるだけではなく、素人による物語的語りでもあるのだ。 物語的語りの特徴は多岐にわたるが、哲学者のナジム・ケヴェンによると、物語的語りとは、「テレオロジー(目的論的)な説明」である(Keven 2024)。どういうことだろうか。 物語では、行為者(主人公)は達成すべき最上位のゴールを持ち、それに向けて複数の下位目標・計画の実施を試みる。たとえ障害や困難が生じても、別のルートで、目指していたゴール達成を目指す。この目標へ向けた柔軟な試みの連鎖が、物語を形成する。 たとえば、ジョン・ラセター監督の『トイ・ストーリー』(1995)は、保安官人形のウッディが家の外に落ちてしまい、なんとかしてスペースレンジャーの「バズ」といっしょに持ち主であるアンディの家へ戻ろうとする物語だ。二人は悪ガキの家に連れ去られたり、一度はすべてを諦めたりしながら、アンディの元に戻るというゴールをひたすらに目指す。 物語的語りは単なる時間的な列挙ではなく、「ゴールに向かうための計画や障害克服のプロセス」を中心に展開される語りなのだ。 これは、先程の改訂排除性と関わりながらも独特な問題を引き起こす。これまでの人生を何らかの目的に向かうものとして理解するとき、次のような問題が起こる。 美学者のピーター・ラマルクが指摘するように、文学作品においては、登場人物の偶然的な出会いもまた、芸術的な構造をつくるために必要な伏線や意味づけとして機能しているが、しかし、現実の人生には、もちろんそうした必然的パターンは保証されていないし、存在しないと考えるべきだろう(Lamarque 2007)。 たしかに、歴史的語りはある意味では目的論的な説明を目指すが、一つの歴史は複数の目的論的説明に「ひらかれている」ことが了解されている。対し、自己語りは、自分の過去に対して目的論を無理やりはめ込むことで、人生に文学作品のような必然性や運命性を見出そうとする。これにより、自己語りは、事実上存在しない運命や必然性を人生に付与する危険をもっている。 この危険が顕在化する例として、臨床現場におけるナラティブ・セラピー実践を取り上げたい。