話せば話すほど「誤解」される!「自己語り」に潜む「一貫性」の落とし穴
「物語」に傷つけられる人びと
臨床心理学者のゲートナーらは、がん患者のためのナラティブ・セラピー実践を研究した(Gärtner et al. 2024)。ナラティブ・セラピーとは、病気を持つようになった自分を受け入れる物語を作ることで、患者がよりよく生きられるようにするための臨床アプローチである(Frank, 2013)。 デンマークのリハビリテーション・緩和ケア知識センター(REHPA)と共同で開発されたセラピーコースで彼らがみたのは、ナラティブ・セラピーによって傷つく人びとであった。 ナラティブ・コースでは、口頭と筆記によるナラティブの練習とグループワークが行われ、 参加者は、かつての人生のターニングポイントを特定したり、重要な人間関係を特定したりするなど、現在の人生の物語における重要な要素を共有し、振り返るよう促された。エクササイズでは、参加者が自分の資源、希望、夢に基づいてストーリーを特定し、語るよう促された。参加者が悲しみ、悲しみ、不安の感情を表現したり、苦しみからの解放を見出したりする余地はほとんど残されていなかったという。 参加者の大半は、価値観、人間関係、人生の新たな道の発見といったテーマに焦点を当てるというコースの前提を守っていた。 彼らは自虐的なユーモアを交えた会話をし、気づきを与えてくれた病気に感謝し、未来の希望に満ちたストーリーを語り合う。コースのファシリテーターたちは、一見ネガティブに見える人生のターニングポイントも、ポジティブな結果につながる可能性があるのだ、と強調した。 あるとき、参加者は2枚の写真を持ってくるように、と言われた。1枚は今の自分を特徴づけるもの、もう1枚はもっとこうなりたいと思うものを示すもの。参加者の一人、ジェニーは、そのエクササイズができないと感じた。 そう、何を持っていけばいいのかわからなかったんだ。最近の私の特徴として、じゃあトイレの写真を撮って持っていけばいいのか、と思ったんだけど〔ジェニーは放射線の副作用で腸が傷つき、日中トイレで過ごしたり、次にいつトイレに行かなければならないかを常に警戒するようになった〕、……そんなことはできない。少なくとも、感動的でなければならない、美しくなければならない、人生を肯定しなければならない、という雰囲気が〔コースには〕あるような気がしたんだ。(Gärtner et al. 2024, 9) ジェニーはグループの人びとの雰囲気を和らげるためにポジティブな話をしなければならないとプレッシャーを感じ、「自分ががんを患ったというだけでは十分ではない。今度は他の人たちの人生を肯定しに来なければならない。そんなことはしたくない。それ〔がんを患った人生〕には美しいものも、人生を肯定するものも何もないからだ」と語った。 病気になったからといってそこから意味を見出す必要などないだろう。病気を自己語りすることで救われる人もいるかもしれない。しかしそれはすべての人にとってそうであるわけではない。 ただたんに自分が病気になったこと、ただたんに苦しいこと、ただたんに病気の自分を生きること。そうしたたんなる人生を愛する人も一定程度いるように思われるのだ。 人生は物語ではない。目的などもたない。 不幸はたんに不幸であり、幸福はたんに幸福である。 >>「自分語り」の一歩先、「他人語り」の危険性についても知りたい方は、つづく「「物語」の気持ちよさに「酔いしれる」キケン…実は勇気が必要な「他人を理解しない」選択」もぜひお読みください。
難波 優輝(美学者・会社員)