話せば話すほど「誤解」される!「自己語り」に潜む「一貫性」の落とし穴
「私は自分の人生の作者ではない」
コウリーが言うように、自己の歴史的語りに対して同じ証拠を共有できるような友人、恋人、家族とともに、自己の歴史的語りの適切さを議論することができれば、自己語りの自己欺瞞に歯止めをかけることができるだろう。 振り返ると、私が自己の歴史的語りを語るときには、(すこし意地悪な)友人や家族が私にこう言う。「きみの認識はおかしいよ!」。適切な自己語りには、批判的で率直な友人たちが必要であり、同時に、その批判的で率直な友人たちをおもしろがれる自己が必要である。 しかし、おそらく数多くの人々は自己の一貫性を保ちたいからこそ物語的理解を行おうとする。そして、こうした人には、率直で意地悪な友人も、それを楽しむ自己も存在しないのではないか、と私は推測する。なぜなら、そもそも自己を物語的に理解しようとする人々の集まりは、互いの一貫性を尊重するほうを選ぶのであり、歴史的語りの深まりを目指すわけではないように思われるからだ。 第1回・後篇で私は、「他人に理解され、他人を理解したい」願いが、人々を一貫した物語へと駆り立てているのだという仮説を披露した。 しかし、私たちが生きてきた歴史は、けっして一貫性だけでは測れない深みを持ってもいる。私たちが様々な選択肢を選ぶなかで、「ぶれたり」、失敗したり、その人らしくない行動をしたこともまた、私たちの歴史的語りにおいては尊重されて然るべきだ。なぜなら、そのほうが、私たちの豊かな歴史を捉えられるはずだからだ。 そういうわけで、自己の物語的理解は、マッキンタイアを始めとする物語論者が言うように、確かに実践されているだろうが、その改訂可能性の低さゆえに、少なくとも他人との、しかも証拠を共有可能な親密であったりする他人との継続的な議論なしでは、まともな自己理解につながる可能性は低い。 自己語りがまともなものになるためには、人は自己の一貫性を危険に曝すことを喜ばなければならないが、そもそも自己語りをする人の多くは、一貫性を求めて自己語りをしているというジレンマがあるのだ。 関連して、クリストファー・ハミルトンは、自伝的な文章はしばしば、個人のアイデンティティに影響を及ぼす外部の影響を軽視している、と指摘する(Hamilton 2018)。首尾一貫した自律的な自己を提示しようとすることで、自己語りは「独立した自己」という非現実的な自己像を作り上げてしまう。 しかし、実際の私たちは、私たちが生まれ落ちる以前から脈々と息づいてきた歴史的、政治的、社会的、文化的な力が渦巻くこの世界に、「途中参加」する。 ハミルトンは、哲学者のアンナ・ハレントの次の文章を引用している。「厳密にいえば、人間事象の領域は、人間が共生しているところではどこにも存在している人間関係の網の目から成り立っている」(アレント 1994, 298)。 それゆえ「私は自分の人生の作者ではない。私はその共同制作者にすぎない」のである(Hamilton 2018, 133)。