なぜ「東シナ海の日中合意」は復活した? 安倍・習近平による外交の成果
中国は外交官による交渉が通用する国ではないと捉えられることが多いが、2008年の「東シナ海油ガス田共同開発合意」は日中間の確かな外交の成果だといえる。一度は葬られた合意はなぜ2017年に復活したのか。 ※本稿は、薮中三十二著『避戦論』から一部を抜粋・編集したものです。
東シナ海に関する日中間の2008年合意
岸田内閣が定めている「国家防衛戦略」において、「中国は東シナ海、南シナ海において、力による一方的な現状変更やその試みを推し進めている」との記述があるが、実は日中間には、2008年5月に発表された日中共同声明において、「共に努力して東シナ海を平和・協力・友好の海」にする、という申し合わせがある。 その申し合わせの第一歩が「2008年東シナ海油ガス田共同開発合意」である。この合意は、2007年12月の福田総理中国訪問を契機に日中間で話し合い、まとめられたものである。ひとことで言えば、東シナ海を日中の中間線で2つに分ける意味を持つ合意である。 中国は、南シナ海では全ての海が中国の海だと主張し、フィリピンやベトナムと争っているが、東シナ海では日中両国が中間線をベースに棲み分けを行い、平和共存しようというのである。まったく南シナ海とは違う対応を中国はとっているのだ。 この2008年合意に至る経緯を見ていこう。 2003年ごろに行われた日中海洋協議の場では、中国は沖縄トラフまでが中国の海だと主張していた。これは、大陸棚が延びていれば、大陸側の国は350カイリまでを自国の排他的経済水域として主張できるとの国連海洋法条約の規定を援用し、海が深くなる沖縄トラフまでが大陸棚であり、中国の海だと主張していたのである。 これに対し日本側は、国連海洋法条約では、2カ国が向かい合っている場合は、話し合って決めるべきことが定められており、その際、中間線をベースに水域を確定するのが国際的な相場感だと主張し、真っ向から対立していた。こうした違いのため、日中間の海洋協議では、水域をめぐる話し合いは全く進展しなかった。 ところが、2007年9月に誕生した福田康夫政権は、中国との関係改善を図る姿勢を示し、中国の政権もこれに応じて日本との関係改善に意欲を示した。そして海洋協議も新たな展開を迎えることになった。 2007年12月、福田総理が訪中し、胡錦濤国家主席及び国務院総理と会談し、日中両国の戦略的互恵関係を具体化していくことで合意した。その一環として、東シナ海問題について、次官級協議を行い、早期解決を図ることが申し合わされたのだった。 2008年5月には胡錦濤国家主席のとしての訪日があり、その際に発出された「戦略的互恵関係の包括的推進に関する日中共同声明」において、「共に努力して、東シナ海を平和・協力・友好の海とする」と明記され、日中協力の推進が軌道に乗り始めた。 こうした首脳間の合意を基にして、2008年6月、日中間で次官級協議がもたれ、東シナ海油ガス田共同開発の合意が達成されたのだった。この合意の肝は、共同開発を行う水域が確定され、その水域の中を日中中間線が走っている、という点である。 すなわち、この合意は日本と中国が東シナ海において、中間線を念頭に置いた形で水域を確定することを意味しており、まさに日本が主張してきた中間線での水域確定が、事実上、実現した瞬間であった。 私はこの交渉を外務次官と行ってきていたが、日本側のメンバーである、当時の秋葉剛男中国課長(現国家安全保障局長)や望月晴文資源エネルギー庁長官と熱く握手したものだった。 もちろん、東シナ海には尖閣諸島があり、この合意で東シナ海の全ての問題が解決するわけではないが、日中両国首脳が東シナ海を平和・協力・友好の海とすることで合意しており、日本と中国との間で東シナ海を巡って平和的に問題を解決し、協力していこうとする雰囲気が醸成されたことは間違いなかった。