梶芽衣子「77歳で亡くなった母と同い年に。映画『曽根崎心中』の増村監督は、日活にいた20代から憧れ。大切な2人に捧げる、6年ぶりのアルバム『7』」
往年のヒット曲「修羅の雪」のセルフカバーを含めた6年ぶりのフルアルバム『7(セッテ)』を、2024年3月の誕生日にリリースした梶芽衣子さん。喜寿を迎えてなおエネルギッシュにロックナンバーを歌い、女優であっても歌手であっても挑戦を止めない、その思いを聞いた(構成:山田真理 撮影:大河内禎) 【写真】「『これ私がやるの?』と思う曲もいっぱいありました」と話す梶さん。それでも「できない」と言わないのは… * * * * * * * ◆ふたりの大切な人に捧げたい 私、こう見えても昔は体がとても弱かったんです。貧血で低血圧で好き嫌いが激しくて、運動嫌い。「40歳まで生きれば十分」と考えていた時期もあったのに、いつのまにやら77歳ですからね。ダブルの「7」で、今回出したアルバムのタイトルにぴったりでしょう? 私の人生には、なにかと7という数字がついてまわってきました。1947年生まれだったり、日活に入ってデビューしたのが17歳のときだったり、右も左もわからない世界にぽーんと放り込まれて、毎日「もう明日やめてやる」と思いながら仕事をしていたら、その年に7本もの映画に出ていたり。だから好きな数字なんですよ。 「7」を「セッテ」とイタリア語読みにしたのは、音の響きがよかったのと、母の終焉の地・イタリアにちなんでのこと。料理の仕事をしていた弟がイタリアにいて、心臓の悪い母は晩年を弟のそばで暮らしたいと願いました。 ビザの取得や病院選びなどの手続きは私がしましたが、海外で荼毘に付すとお骨を日本に持ち出すにはたくさんの申請や証明書が必要なことを知って。「お骨が日本に帰れなくてもいいの?」と確かめましたが、決意は変わりませんでしたね。 当時の私は、おまさ役で出ていたドラマ『鬼平犯科帳』の撮影に、半年から1年単位でスケジュールを当てていました。その合間を縫ってイタリアへ通ったんですから、超がつくほどの遠距離介護ですよね。 でも24歳で実家を出た私が、最後に少しだけ母との距離を縮めることができた貴重な時間だったと、いまは懐かしく思い出します。母は77歳で亡くなりましたから、自分もそういう年齢になったのか、という感慨もあります。