やはり残酷な悪役!? 曹操に「粛清」された男たち…孔融、楊修、荀彧たちの共通点
中国史にあまり関心がなくとも、孔子(こうし)の名を知る方は多いと思う。孔子は紀元前4~5世紀の思想家で儒教の創始者、『論語』の著者として名高い。儒教(儒学)が尊ばれた日本においても、とくに江戸時代に大きな影響を与えた人である。 三国志には、その孔子の子孫が登場する。20代目にあたる孔融(こうゆう=153~208年)だ。幼いころから聡明な人物として有名で、自分はいちばん小さい梨を選び、大きい梨を兄弟たちに譲ったという「融四歳、能譲梨」(孔融、4歳にしてよく梨を譲る)などのエピソードで知られる。 献帝(けんてい)のおわす許都での孔融は、まさに水を得た魚。孔子の末裔である彼の発言は重んじられ、朝議の席では中心的な存在になったという。 曹操は詩文に秀でた学者たちを数多く抱え、文人サロンを形成していたが、そこでも孔融の才能は遺憾なく発揮された。当時、許都にいた詩人・文人の仲で、特に秀でた七人が「建安七子」(けんあんしちし)と呼ばれたが、建安とは時の元号。まさに時代の主役であった。詩人として名高い曹丕(そうひ)も孔融の残した文章を捜し求め、届けてくる者に褒美を与えたというほどだ。 ■突然、孔融処刑の命令が下される しかし、そんな孔融の存在を苦々しく思う者がいた。曹操である。献帝以上の権力者になった曹操にも、孔融は臆さず苦言を呈した。「自分は曹操の家臣ではなく、漢(献帝)の臣下」というスタンスでいたとみられる。 208年、孔融は曹操に突然処刑された。理由は孫権の使者に対し、曹操の悪評を述べたためというもの。まだ幼かった2人の子(兄妹)も処刑され、それで孔子の末裔は絶えた。 一説に、この件も曹操の悪名が高まった原因といわれる。なぜ孔融処刑に踏み切ったのか。孔子は儒教のパイオニアだから、その子孫の孔融を殺すことで儒教を否定したのだという見方がある。実際、その2年後に曹操は「唯才是挙」という触れを出す。 「ただ才能のみを挙げよ」というもので、有能な人材を中国全土から広く集めるため、3度も発布した求賢令(きゅうけんれい)の最初のものである。確かに、これは儒教思想に基づく既存の社会体制と相反する政策といっていい。 ■名医華佗、そして右腕の荀彧まで しかし、実際にはもっと違う理由があったのかもしれない。その例として挙げたいのが同年に獄死した華佗(かだ)である。名医として有名な彼は曹操の権力に屈さず出仕を拒んだ。ために拷問のすえ、哀れにも命を絶たれたのである。 212年には、曹操の右腕として長年働いた荀彧(じゅんいく)が死んだ。彼はやはり「漢の忠臣」であろうとし、曹操の権力拡大に批判的だったと伝わる。病死ともいわれるが『魏氏春秋』などを見ると、曹操に空の器を贈られて悶死したと書かれるなど、その死はどこか謎めいている。 216年、崔琰(さいえん)の死も奇怪だ。崔琰は優れた容姿と長いヒゲを生やした威厳ある人で、曹操に自分の影武者を務めるよう頼まれた人物。ところが讒言(ざんげん)がもとで投獄され、獄中でも立派に見えたので曹操は彼を自害させたという(世説新語、崔琰伝)。 219年には、曹操の「鶏肋」(けいろく)などの暗号を難なく解き、周囲に触れまわった楊修(ようしゅう)も処刑された。曹操によって、このように粛清されたり酷い目にあったりした人物はまだまだいる。 だが、彼らの「罪状」とされる出来事をみると、本当に処刑されるほどのものだったのか・・・。なにより『三国志』の著者・陳寿(ちんじゅ)自身が「曹操が当時嫌悪し処刑した人物は孔融、許攸などはみな、昔の関係をたのんで不遜な態度をとったことで処刑された。崔琰は最も強く愛され惜しまれ、彼の死は無実だと信じられている」と書いている。 処刑は免れたが、将軍の朱霊(しゅれい)はなぜか曹操に疎まれ、彼の軍営は曹操の命令で取り上げられ、于禁(うきん)の監督下に置かれるようになったという。 曹操は「唯才是挙」の触れを出しながらも意外と好き嫌いの激しい人物だったのではないか。例に挙げた孔融、華佗、荀彧、崔琰、楊修はいずれも優秀な人材で、慕う者も多く、傑物といえるほどの者たち。彼らを生かしておけば、やがて自身の地位が危うくなるのでは・・・と危機感を抱いたとも考えられる。 日本では吉川英治の小説などの影響で魅力ある英雄とみられ、また近年、中国で英雄として再評価が著しい曹操。しかし長年、悪評にさらされてきたという事実も、やはり見逃せないものがある。もちろん曹操の文武におけるアジア史上の功績は否定されるものではないが、呂伯奢(りょはくしゃ)や徐州虐殺などのマイナス面が語り継がれるあたり、彼が英雄ではなく「奸雄」と評されるゆえんであろう。
上永哲矢