若いエキストラに「どこかで誰かが絶対見てるよ」 西田敏行さんの“共演者をとりこにする”素顔を盟友らが証言
撮影の合間に見せた「プロの力」
竹下が初めて西田さんと仕事をしたのは、彼女がまだ大学生の時だった。1974年から放送されたNHKの連続ドラマ「ふりむくな鶴吉」。主演は沖雅也、竹下は沖のお相手となる女性、西田さんは下っ引きの役だった。 「ハナ肇さんや宇野重吉さんなど、そうそうたるメンバーでした。西田さんはまだ若手だったのですが、そういった大物の中でも、キラキラ輝くような魅力がありました。私とは五つほどしか違わないはずなんですが、とてもそうとは思えなかったですね。こちらが大学生で右も左も分からないのに対して、西田さんは青年座出身の新鋭俳優という感じで、憧れました」(竹下) 西田さんは気さくな男だった。 「撮影の合間、楽屋にみんなが集まると、エルヴィス・プレスリーのまねをしてくれるんです。それがまたうまくてねえ。役者たちの間でも大人気で、“西田さーん! もういっかーい!”とアンコールがかかると、何度でも歌ってくれるんです。本当のエンターテイナーなんだ、プロってすごいなあと感心しきりでした」(同)
1日で明治大学を中退
西田さんは47年、福島県郡山市で生まれている。実父が亡くなり、実母の再婚を機に、5歳の時に実母の姉夫婦の養子となった。郡山市立小原田小、小原田中学校を卒業した西田さんは映画好きだった養父の影響もあって俳優を志すようになり、上京して明治大学付属中野高校に進んだ。そのまま明大農学部に内部進学したものの、1日だけ出席して中退。70年、「青年座」に入った。そして入団2年目の頃、早くも西田さんにチャンスが訪れる。「写楽考」という作品で主役に抜てきされたのだ。 「『写楽考』の時の西田敏行はまだ“完成した西田敏行”ではなかった。内面の表現力はやや足りないところがあった。ただ、役に深く入りこんでいて、演じ方が非常にうまく、セリフが板についていました」(演劇評論家の木村隆氏)
「紅白に出場した時だけは“ありがとうな”と」
「写楽考」が評判を呼んだことで、映画やテレビの関係者からオファーが寄せられるようになり、73年から74年に放送されたNHKの連続テレビ小説「北の家族」に大工役で出演。74年の8月には、青年座の研究生だった寿子さんと結婚している。そして、78年に始まったドラマ「西遊記」と、80年スタートの「池中玄太80キロ」で人気は不動のものに。81年には「池中」第2シリーズの主題歌「もしもピアノが弾けたなら」が大ヒットし、「NHK紅白歌合戦」出場を果たしている。 当時、西田さんのマネージャーだった舘野芳男氏いわく、 「仕事に関してはマネージャーに厳しい西田さんも、『紅白』に出場した時だけは“舘野、ありがとうな”と言ってくれました」