なぜバドミントン日本代表は強くなったのか? 成果上げた朴柱奉ヘッドコーチの20年と新時代
朴柱奉の就任と改革の始まり
2004年8月に行われたアテネ五輪のバドミントン日本代表は、男女を通じてわずか1勝に終わった。 長い低迷から脱するために世界的指導者に教えを請うしかない。白羽の矢が立てられたのは、現役時代に男子ダブルス、混合ダブルスで一時代を築いた“ダブルスの神”であり、母国・韓国のほか、イングランド、マレーシアでも指導経験があり、イングランド、韓国ではナショナルチームの改革に成功したと評判の朴柱奉だった。 2004年11月に日本バドミントン協会と契約した朴は、日本特有の問題にすぐに気が付いたという。 当時の日本バドミントン界は、多くのアマチュアスポーツがそうであるように実業団主導型。企業がチームを持ち、選手は社員として業務に携わるのが通常。練習は企業保有の体育館で、日本代表は「呼ばれた時に行って帰ってくる場所」に過ぎなかった。 国際大会の3、4日前に集合して軽い調整を行い、その足で飛行機に乗り大会をこなす。 1992年にバドミントンがオリンピックの正式競技に採用されてからは、メダルへの注目度から日本代表としてプレーする意義は高まってきていたが、主体はあくまでも実業団チームにあった。 「日本はとにかく実業団中心。選手もコーチも実業団から派遣されているような状態で、スケジュールも国内の大会が優先されて組まれていました」 強化の時間もなかったが、日本代表が一堂に会して練習する場所の確保にも苦労した。当時の日本代表の練習会場は、公共、大学の体育館を借りるのが一般的だった。当然各体育館には優先すべき競技、チームがあるわけで、物理的にも十分な練習時間を確保するのは難しかった。 これらの諸問題については、ある意味で“外圧”である朴の「なぜ?」が効いた。遅々として進まない部分はあったが、自身も所属会社から派遣されている身である日本人コーチにはない「日本代表ファースト」を押し通す突進力が徐々に伝わった。実際にかなり早い段階で男女シングルス、男女ダブルスのコーチングスタッフ完全専任化が実現し、バドミントン日本代表が“実体化”していった。