信長・秀吉・家康も『源氏物語』を読んでいた!? 戦国大名も憧れていた宮廷文化
源氏物語入門書を書写していた秀吉
信長は天正10年(1582)の本能寺の変であえなく斃れるが、彼のあとを継ぐようにして天下統一をはたした豊臣秀吉は、明らかに『源氏物語』に強い関心をもっていた。 専修大学が所蔵する古書に『源氏物語のおこり』というものがある。『源氏物語』の起源伝承などを記したもので、原本の成立は南北朝時代とみられる「源氏物語入門」的な小冊子だが、これを納めた箱の蓋には「太閤秀吉公御筆」と墨書されている。つまり、冊子を筆写したのは秀吉だというのである。 奥書などから、この書の成立経緯は次のように推測されている。 筆写の元になった本の所有者は藤原北家の本流にして五摂家筆頭の近衛家の息女慶福院で、彼女は天正15年(1587)にこれを秀吉の正妻北政所(ねね)の侍女「ちゃあ」(茶々と呼ばれた秀吉の側室淀君とは別人とされる)に贈った。ところが、これを秀吉が盗み出し、面白がって書写した。 推測交じりの由来ではあるが、写本の筆跡は秀吉の真筆と認めてよいとされている。ちなみに、秀吉は天正13年(1585)に近衛前久(慶福院の兄弟)の猶子として関白となり、翌14年には豊臣に改姓して太政大臣も兼任している。 貧しい農民の生まれである秀吉は、満足な教育を受けずに戦国武将として生き抜いてきたが、それだけに、功成り名遂げると教養や貴族文化への執心が強く生じ、『源氏物語』にも惹きつけられていったのだろうか。
源氏伝授を受けていた家康
秀吉に比べると、徳川家康の『源氏物語』への関心はかなり本格的なものだった。 三田村雅子『記憶の中の源氏物語』によれば、家康は慶長19年(1614)7月から翌元和元年(1615)8月にかけて、4回に分けて源氏伝授を受けている。当時、すでに70歳を超えていた。 家康は慶長10年(1605)には将軍職を子の秀忠に譲っていたが、慶長19年11月には大坂冬の陣を起こし、翌年4月にはじまった夏の陣ではついに大坂城を落とし、豊臣家を滅亡させている。天下統一の総仕上げを行う最中に、家康は『源氏物語』の奥義を得ようとしていたのだ。 4回目の源氏伝授は最も本格的なもので、古典学者として知られる中院通村を招いて京都の二条城で行われた。中院家は村上源氏の分かれである。 通村はまず『源氏物語』の講釈を行った。このとき家康は首巻「桐壺」からの講釈を求めたが、通村は第23巻「初音」から行うことを進言し、冒頭の朗読を願い出た。公家たちの間では、桐壺更衣の死が描かれる「桐壺」巻を避けて、六条院ではじめて迎える新春の情景からはじまる「初音」巻を朗読することが正月の恒例行事になっていたらしいが、それにならおうとしたのだろう。 納得した家康は「年たちかへる朝の空のけしき、なごりなく......」と読みはじめたが、その声は「事外高声也」(『中院通村日記』元和元年7月20日条)だったという。「高声」という語には「高い声」と「大きい声」の両義があるが、天下の大将軍の声ははたしてどちらだったのか。ちょっと気になるところではある。 家康は『源氏物語』の良質の古写本も集めていて、名古屋市蓬左文庫が所蔵する全巻揃いの河内本の善本「尾州家河内本源氏物語」は、家康が尾張徳川家の祖義直(家康の九男)に譲ったものと言われている。 「国宝源氏物語絵巻」についても、大坂城落城時に家康が奪取し、それが尾張徳川家に伝えられたとする伝承があるが(ということは、一時は豊臣家が所有していたことになる)、これは確証がある話ではない。 しかし、具体的な時期は不明ながら、江戸時代にはこの名品が尾張徳川家の所有に帰し、最終的に徳川美術館のものとなったことは、神君家康の『源氏物語』愛好と決して無関係ではないはずである。近年発見されて話題を呼んだ定家本原本の「若紫」巻が江戸時代には徳川将軍家に伝えられていたらしいことも、同様だろう。 家康は清和源氏の一流新田源氏の後裔を称し、慶長8年(1603)の征夷大将軍就任時には源氏長者の地位にも就いている。家康は源氏の一員であることを意識して『源氏物語』を読み、光源氏の姿に源氏将軍の理想像を見出そうとしていたのではないだろうか。
古川順弘(文筆家)