「会うべき人」がいることは、ラグジュアリーかもしれない
「会いたい人」と「会うべき人」は必ずしも同じではありません。前者は文字通りですが、後者は前者も含みながら範囲が広い。例えば、遠く離れたところにいる親や兄弟、かつてお世話になった人、こうした人は「会いたい人」ではあるけれど「会うべき人」と言った方が良さそうです。 ここでの「会うべき」は義務というよりも、会わない選択をすると後悔する、というニュアンスをぼくは感じます。この記事では、「会うべき人」について考えてみます。 これを考えようと思ったのは、11月のある日、ミラノの刑務所で開催されたアート展を見てからです。ミラノ工科大学デザイン学部が主体として活動しているオフキャンパスという仕組みがあります。ミラノ市内の数カ所に設置されたキャンパスでは、研究成果を市民や地域のために活用し、さらに研究内容を充実させていく取り組みをしています。その一つがサンヴィットレ刑務所です。 19世紀後半のイタリア国家統一時にできた同刑務所は、かつての都市構造では郊外に位置しましたが、街が拡大した今ではミラノ市のほぼ中心にあり、建築物としても(有名な政治犯などが収容された)歴史的役割からも市民に知られた存在です。ただ、現在は刑期が決まる前の収監者のために使われており、正確には拘置所です。 ここにあるオフキャンパスが都市と刑務所の関係を探っています。その一環として、この3月から6月までコンテンポラリーアーティストのリードのもと収監者やリサーチャーなどが対等にワークショップを実施しました。そこでつくられた作品が、今回の展覧会で外部の人間にも公開されました。 このプロジェクトには2つの特徴があります。収監者によるデザインやアートというと、「塀のなかにこんなクリエイティブな人がいる!」という驚きを誘う展覧会が多い印象がありますが(実際、昨年ぼくが同じ場所で見た団体によるデザイン展はその傾向がありました)、今回のアートは「コレクティブ」です。1人1人の個性を反映しながらも、遠目でみると一つのコンセプトにおさまっている。これがひとつ目の特徴です。 ふたつ目は、判決前であるため収監者が流動的で、かつ収監者はイタリア人以外が7割程度であるという点です。アフリカや中東からの人が圧倒的に多い。家族を故郷に残したまま地中海を小さなボートで渡り、誰かの遭難を見届けながら辿り着いたイタリア半島では身分証明書もなく、イタリア語も話せないから、仕事もできず、住居もない。結果、何らかの罪を犯してしまって収監されているというわけです。 したがって4カ月間にわたるワークショップに参加する人は毎回違うことが多く、また、ある程度のコミュニケーションが可能な人たちが選ばれます。