「合唱のような不気味な汽笛が響いた」。さぶちゃんの同級生が記憶する洞爺丸沈没の夜 翌朝、高校の屋上から見た光景は…
北海道函館湾内で乗客乗員計1155人の命が奪われた、国内最悪の海難事故の旧国鉄青函連絡船「洞爺丸」沈没から9月26日で70年。約1500人が犠牲になった英国の豪華客船「タイタニック号」沈没事故(1912年)に匹敵する大惨事だった。洞爺丸沈没当時、函館市の高校生だった山岸光生(やまぎし・みつお)さん(88)=札幌市在住=はあの夜、不気味な音を聞いていたという。不安な夜が明け、見た光景は―。今回、初めてマスコミの取材に応じ、当時の出来事と洞爺丸への思いを語った。(共同通信=志田勉) 【写真】「焼け焦げた木と思ったら、人の形を」520人が犠牲になった38年前の夏、20代だった記者は… お坊さんが道の端に立ち、山に向かって一心不乱に読経 経験したことのない臭いがあたりを覆い、そこにあってはならないものに足がすくんだ 「ここにいた人たちは、もう疲れることもできない」
▽九州に上陸後、北海道へ 洞爺丸沈没事故とは、どのようなものだったのだろうか。1954年9月、九州南端に上陸した台風15号は26日夜半、北海道南部を襲った。函館から津軽海峡を渡り青森に向かう予定の洞爺丸は台風接近で出航を見合わせた。だが午後6時半すぎ、船長の判断で出航。未曽有の受難の始まりだった。 折からの猛烈な風と大波に襲われ、出航後に間もなく航行不能になる。函館湾七重浜沖合で約4時間後に転覆・沈没した。全国各地で被害をもたらした台風は「洞爺丸台風」と命名された。 ▽「海峡の女王」とボートで並走 沈没事故が起きた年、山岸さんは函館西高校の3年生だった。同級生には、後に演歌界のスターとなる「さぶちゃん」こと北島三郎(きたじま・さぶろう)さんがいた。「休み時間の鼻歌で教室がシーンと静まりかえるほどうまかった」。 山岸さんはボート部でキャプテン。4人こぎの「ナックルフォア」で、全体のリズムをとる「ストローク」を担当した。
放課後のボート練習は函館湾だった。観光名所の金森倉庫群近くの西波止場から函館桟橋に向かって約千メートルこいで戻ってくる。「波が穏やかで、ナックルフォアの大会と同じくらいの距離なので、ちょうど良かった」 風を切り、水面を滑空するようにオールでこぐと、行き交う青函連絡船と約500メートル並走できた。「洞爺丸、羊蹄丸、摩周丸…。ボートで連絡船に近づくと汽笛で注意されたこともあった」。山岸さんは懐かしそうに振り返る。 青函連絡船は最盛期に13隻で1日30往復していた。その中でも洞爺丸は別格だった。全長100メートルを超える船体と優雅なたたずまいから「海峡の女王」と呼ばれた。練習中にデッキから乗客が「頑張れ」と手を振ってくれたこともあった。 「私にとっては『女王』というより『雄姿』かな。4本の煙突があって、格好良かったよ」。憧れは日に日に増し、いつか洞爺丸の船長にと夢が膨らんでいった。 ▽あかね色に染まった西の空