「合唱のような不気味な汽笛が響いた」。さぶちゃんの同級生が記憶する洞爺丸沈没の夜 翌朝、高校の屋上から見た光景は…
山岸さんは当時、函館山のふもとの教会近くに住んでいた。「あの日」は日曜日。函館市内で小間物屋を営む叔父が東京・浅草で買い付けを終え青函連絡船で帰ってくる日だった。叔母から函館桟橋に迎えに行くように頼まれた。 午後2時過ぎ函館桟橋に行くと、青森発函館行きの大雪丸は予定時刻を過ぎても接岸していない。雨脚は弱かったが、強風だった。 2時間以上遅れで到着した叔父の顔は青ざめていた。「津軽海峡に入ったら揺れがひどくて、ひどくて。おっかなかった」。隣の岸壁で洞爺丸が出航準備していた。 その頃、急に西の空があかね色に染まった。山岸さんは鮮明に覚えている。「晴れ間が広がり、風も弱まった」。午後5時ごろ、函館は台風の目に入った様相を示した。 しかし、事故後に海難事故の原因究明に当たる海難審判の裁決などによると、台風は北海道に近づくにつれ速度を落とし、津軽海峡の西方に。夕焼けは台風とは別の前線通過による現象だった。
裁決では事故要因の一つとして「台風が通過したと認められない荒天下に運航した」と、死亡した船長の職務上の過失を認定した。「一瞬の晴れ間」が出航判断に影響したとみられている。 ▽深夜、叔父と顔を見合わせて「なんだべや」 その晩、山岸さんは函館桟橋近くの叔父の家に泊まった。「ピューピューと風が強くてね。トタン屋根が飛んできて、何かにぶつかり火花が出た」。五寸くぎで雨戸を固定し、台風に備えた。 夕食を終え、くつろいでいた午後11時ごろ。不気味な汽笛が聞こえた。「1隻だけではない。何隻も一斉に『ボー、ボー』と鳴って、まるで合唱のようだった」。山岸さんは記憶の糸をたどる。「なんだべや」。叔父と顔を見合わせ、不安を抱えつつ床に就いた。 共同通信の情報公開請求で海難審判所が開示した青函鉄道管理局と洞爺丸の通信記録によると、洞爺丸は「2226(午後10時26分)ザセウセリ(座礁せり)」と発信している。七重浜沖で沈没したのは午後10時45分ごろだった。