仁支川峰子「26年前、栃木の集中豪雨で新築1ヵ月のマイホームを失った。復興時には日頃のつき合いに感謝して」
◆昔の友人が駆けつけてくれて 大変だったのは、その後でしたね。私が那須の家へ戻ったのは、ようやく水が引いた9月に入ってからでした。ドアや壁は流木に突き破られ、室内は泥だらけ。平屋でしたので、新調したばかりの家具も全滅でした。浸水して使い物にならない、というレベルではなく、すっかり流されてしまって何もない状態。 家から200メートルくらい離れた川沿いに立つ大木に、自分が寝ていたベッドのマットレスが引っかかっているのを発見した時は、「あの日、家で寝ていたら……」と、さすがに血の気が引きました。 正直なところ、せっかく建てた家が暮らし始めて1ヵ月でオジャンになったうえに、まだ保険に入っていなかったのも痛かった。 すべての衣装はもちろん、愛車のベンツもバッグも靴もお気に入りの食器もすべて失いました。でも、物はまた働いて買えばいいや、と思えたんです。 悲しかったのは、すでに亡くなっていた両親と写った写真が流されてしまったことです。アルバムも失ったと気づいた時は愕然としましたね。すべてを失うというのはこういうことか、と。
気持ちに折り合いをつけられたのは、地元や東京から手伝いに来てくれた友人たちのおかげです。のべ50人くらい来てくれました。 私は昔から人をもてなすのが好きで、よく料理を作って家に招いたり、若い人たちを食事に誘って奢ったりしていました。見返りが欲しくてしたわけではなかったけれど、みんな覚えていて、駆けつけてくれましたね。あれは嬉しかったし、何より助かりました。 日頃の人づきあいが大切だとつくづく思います。那須町の住民とも仲良くしていたので、情報交換をしたり、励まし合ったりできて心強かったです。 当然、那須の家には暮らせなかったので、東京の事務所で1年ほど過ごしました。 もともと物にあまり執着がないタイプです。というのも、私は福岡県田川郡赤村の山奥にポツンと立つ家で生まれ育ち、電気が通ったのは6歳の時でした。カンテラ蝋燭で夜を過ごし、ほとんど自給自足の状態で暮らしていた経験があるので、原点に戻ればいいだけだと思えばどんな暮らしも怖くないんですね。 もし避難所生活になったとしても、元気に生きていく自信があります。 (構成=丸山あかね、撮影=洞澤佐智子)
仁支川峰子