秀吉に利用され、家康に期待された丹羽長重の「実直」さ
■天下分け目の一戦でも「実直」に行動 長重は秀吉に父から継承した所領と家臣団を奪われた後も、豊臣家に「実直」に仕えています。 秀吉が死去すると、徳川家康から隣国加賀の前田家の監視を命じられています。長重の能力と人間性が家康からも高く評価されていたのかもしれません。 しかし、豊臣政権内での対立が激化すると、豊臣家への忠誠を示すかのように西軍に加わり、北陸無双の城郭と言われる小松城に籠城し、家康側として行動する前田家と戦うことになります。 長重は浅井畷(あさいなわて)の地形を利用して、寡兵ながらも2万5千もの大軍である前田家に損害を与え、その足止めに貢献しています。 結果的には関ヶ原の戦いの本戦で西軍が壊滅したこともあり、長重は前田家に降伏し小松城を開城することになります。この時、丹羽家に人質として送られてきた前田利常(としつね)に梨を自ら剥いて与えるという、その「実直」さを表す逸話が残っています。 長重は西軍に従いながらも、結果的に前田家への牽制役という家康の命は守っているという奇妙な状態を生んでいます。 ■徳川家への忠勤とひっ迫する藩財政 長重の能力と性格は、家康だけでなく秀忠にも高く評価されていたようです。1603年には常陸古渡1万石を拝領し大名として復活すると、家康の死後、1619年に常陸江戸﨑2万石、1622年には陸奥棚倉5万石と倍増する勢いで所領を増やしていきます。 その間、秀忠の御伽衆のひとりとして、佐久間安政(さくまやすまさ)や立花宗茂(たちばなむねしげ)たちとともに選ばれています。1627年には蒲生(がもう)家の改易にともなって、陸奥白河10万石へ加増転封となります。 長重は遺言に「将軍の恩を第一として、徳川幕府への忠勤に励め」と残すほど、幕府の命を「実直」に努めていきます。 長重は、奥羽の守りとして総石垣づくりの白河城を築城しており、東北の諸将の監視役を期待されていたとも言われています。しかし、幕府への忠勤による出費に加えて、改易によって散り散りになっていた家臣たちだけでなく、蒲生家の旧臣の多くを受け入れた事で、藩財政を逼迫させてしまいます。 そして、長重の「実直」な姿勢を歴代藩主が受け継ぎ、幕府による天下普請に積極的に協力していった事で、丹羽家は常に財政難に悩まされ続けます。 ■「実直」なリーダーに翻弄される組織 長重は織田家を通じて徳川家と縁戚関係にある点に加え、その「実直」な性格も評価され、最終的には陸奥白河10万石の大名に返り咲きます。 ただ、その性格ゆえに忠勤に励む事を最優先とするため藩財政を圧迫し、領民たちに負担を掛けることに繋がります。この姿勢は二本松に移ってからも引き継がれていき、幕末まで藩財政を苦しめることになります。 現代でもリーダーが「実直」であるがゆえに、外部や上層部からの評価は高いものの、部下に大きな負担を掛けてしまう例は多々あります。 もし、長重も関ヶ原の京極高次のような立ち回りができていれば、幕府との関係性も違ったものになっていたかもしれません。 ちなみに、幕末においても丹羽家は幕府のために「実直」に尽くそうとします。二本松藩は奥羽越列藩同盟に参加し、12歳から14歳の少年による「二本松少年隊」の悲劇を生む事になります。
森岡 健司