秀吉に利用され、家康に期待された丹羽長重の「実直」さ
■「実直」な性格により翻弄される丹羽長重 丹羽長重(にわながしげ)は、父長秀(ながひで)から引き継いだ123万石の所領と有能な家臣団を2度の減封により失い、関ヶ原の戦いでも西軍について改易された凡将のイメージが強いと思われます。 しかし、2度の減封は秀吉が丹羽家の勢力の段階的な弱体化を図ったものだと言われており、長重の能力が理由ではないとされています。 また関ヶ原の戦いでは、家康から前田家の牽制役として期待された通りに、西軍の一員でありながら足止めに貢献しています。ただし、西軍が敗れたため改易となります。 丹羽家の紆余曲折には、長重の「実直」な人間性が関係していると思われます。 ■「実直」とは? 「実直」とは辞書によると「誠実でかげひなたのないこと。また、そのさま。律儀」とされています。一方で、「度が過ぎて融通がきかない」という否定的な意味合いで使われる場合もあります。 そのため「実直」な人間とは、真面目で律儀である事に加えて、どのような状況になっても、ルールや規則を頑なに守る臨機応変さに欠けているイメージも含まれていると思われます。 長重は「実直」であるがために、秀吉から嫌がらせのような処置を受けていたにも関わらず、関ヶ原の戦いでも豊臣家のために西軍に属しています。 ■丹羽家の事績 丹羽家は桓武(かんむ)天皇の末裔(まつえい)を称していますが、父長秀が織田信長に仕える以前の経歴については不明な点が多く、尾張守護の斯波(しば)氏に仕えた土豪が出自と考えられています。 長秀は信長の信頼が厚かったようで信長の養女を妻としており、長重が生まれています。長秀は織田家の重臣として数々の戦に参加し、若狭(わかさ)一国を与えられ国持大名となっています。 そして、それまでの功績により、織田家では柴田勝家に次ぐ地位を得ています。 本能寺の変では豊臣秀吉と協力し明智光秀を討ち、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでも秀吉を援護し、その功績により越前と加賀の一部を合わせて60万石の大名となります。与力大名を入れると123万石だったとも言われています。 しかし、長重の時代になると加賀征伐と九州征伐における家臣の失態を理由に、加賀松任4万石にまで減封されてしまいます。突如として、豊臣政権の最大の後見者の地位を、家康と入れ替わるように失います。 その後、小田原征伐での活躍が認められ、加賀小松12万石にまで回復させます。